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人間は、自分ではどうすることもできない状況に長期間置かれたとき、その状況に「立ち向かおう」という気持ちが薄れてしまいます。これは、アメリカを代表する心理学者マーティン・セリグマンによって提唱された「学習性無力感(learned helplessness)」という概念です。
普通「学習」というと、良い意味で用いられることが多いでしょう。しかし「学習」とは、簡単に言えば「その前後で行動・考え方が変化すること」という中立的な意味を持つ言葉です。良いことも、悪いことも「学習」してしまうのが人間なのです。
「何をしても無駄だ」という考えは「学習」されたものです。私たち人間も、他の動物と同じように、競争社会に生きています。そうした競争社会の中では、ライバルに無気力を「学習」させれば、自分が有利になります。競争社会のストレスの背景にも「学習性無力感」があるのです。
さらに「学習性無力感」は、イジメや虐待によって進行してしまうものでもあります。逃げ出すべきところで逃げられなかったり、相談すべきところで相談できなかったりするのは、こうした心理学的なものがあるわけです。
人間は、やったことのないことを、上手にやることはできません。そして、この世界は広いので、自分がやったことがあることよりも、やったことのないことのほうがたくさんあります。
また、経験していないことは、自分には難しく感じられるものです。しかし、よくよく考えてみると、人間が持っている能力というものは、一部の天才をのぞけば、だいたい似たようなものです。
たしかに、やったことがないことを、上手にやれる人はいません。しかし同時に、きちんとした教育者について、数回経験してしまえば、誰にでもできることも多くあるのも事実です。
一人一人の人間には、大きな可能性があります。その可能性を開花させるのに必要なのは、様々な経験(成功体験)を通して「どんなことでも、しっかりとやれば、できる」という自信を身につけて行くことです。結果として失敗することも増えていきますが、失敗はチャレンジした証拠でもあります。
先にも述べたとおり、人間の競争社会には、あえて「自分のやっていることは、高度で難しいことだ」と周囲にアピールするようなところがあります。そうしておかないと、自分の価値が低く見積もられてしまうという恐怖もあるからです。
これを真に受けると、私たちは「今の自分のできること」しかやらなくなります。まだやったことのないことや、今の自分には少し難しいことにはチャレンジしなくなるのですから、成長も止まってしまうでしょう。
すると、ますます小さな自分の世界に固執するようになります。そして、そんな自分を守るために、いつしか「自分のやっていることは、高度で難しいことだ」というアピールをする人材の仲間入りをしてしまうのです。
この裏にあるのは、まさに「学習性無力感」です。それは、本来のその人の姿ではなく、周囲からの意地悪なアピールを真に受けてしまったがための「学習」です。この「学習性無力感」は、その存在を意識して、なんとかそれをはねのける必要があります。
しかし自分一人で、それをやるのは、とても難しいと考えられます。ここに「メンター」と呼ばれる導き手の存在があると、そのハードルが下がるのです。また、失敗を許容してくれる環境も大切になってきます。
ここで、失敗の許容度は、その集団の仲の良さに関連しています。ギスギスした職場では、小さな失敗でも非難されるので、チャレンジすることが怖くなります。これに対して、笑顔のあふれる仲の良い職場では、多少の失敗は大目にみてもらえます。失敗を大目にみてもらえる環境では、チャレンジがしやすくなります。すると、そこにいる人材は「学習性無力感」とは無縁になっていくのです。
前置きが長くなりましたが、以下、3つほど、介護という文脈における「学習性無力感」について考えてみます。よく観察してみれば、ここで取り上げるもの以外にも、たくさんの「学習性無力感」があるはずです。ぜひ、みなさまも考えてみてください。
要介護者も、人生経験の中で「学習性無力感」にとらわれてしまっていることもあります。すると、ちょっとしたチャレンジでも「自分にはできない」「無駄に恥をかきたくない」「失敗して自信を失いたくない」という気持ちになってしまいます。もちろん、価値観からそれをやりたくないというケースもあるので注意も必要です。しかし、その背景に「学習性無力感」があると感じるなら、自分がまず先にそれをやってみて失敗するところを見せてあげると、チャレンジしやすくなる場合もあります。失敗してもよいという空気を生み出すことのほうが、勇気づけることよりも有効なこともあります。周囲のみんながチャレンジしてみて、みんなが自分の失敗を笑っている環境ならば、チャレンジできる人も多くなるでしょう。とはいえ、実際の対応は、高齢者のタイプにもよるので、それについても配慮が必要です。
介護を一生懸命やっているのに、なかなか思うようにいかないということは、よくあります。すると「なにをしても無駄だ」という具合に「学習性無力感」にとらわれてしまう人も多くでてきます。こうした人は「理想的な介護」のイメージが強すぎて、その自分で作ったイメージに負けていることもあります。そんなとき、やはり威力を発揮するのが「家族会」です。そこでは、みんなが介護について悩んでいて、失敗もたくさんしているということを知ることができます。また「理想的な介護」など、だれにもできていないという事実に触れることも大切でしょう。人間は不完全だからこそ、みなで励ましあい、助け合う必要があるというところに行き着けば、気持ちは楽になるはずです。
真剣に介護に向きあっている介護職ほど、利用者の死に感じる理不尽に打ちのめされます。必死に、その人のために頑張ってきたのに、その頑張りが全て無駄になってしまったように感じてしまうのです。この考え方は、まさに「学習性無力感」そのものです。もちろん、利用者の死に際して悲しまない介護職などいません。しかし、だからといって、介護職がその利用者に注いできた情熱までもが無駄になるわけではありません。「よく生きる」ということは、自分の情熱を向けられる対象を得ることだからです。実は、そこそこの福祉教育を受けている人ほど、死を受け止めるのが難しいという研究もあります。その状況にもよりますが、グリーフケアを考える必要があるケースもあるでしょう。
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