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見栄というのは、表面的なプライドのようなものであり、他人からみた自分を気にすることを指している言葉です。言い換えれば、ステータスのようなものかもしれません。ブランド品を誇示したり、高級車を求めたり、果てはパートナーの外見にこだわったりすることも、広い意味で見栄でしょう。
そう考えてみれば、見栄というのは、実にくだらない、本当の意味のプライド(自分の成果にこだわること)とは異なることはすぐにわかります。しかし私たち人間は、特に男性の場合、見栄を気にする生き物であり、見栄から少しでも自由になることに苦労するというのも事実です。
企業で働く立場からすれば、消費者がブランドを気にしなくなってしまえば困ります。ブランドは、同じ品質であってもより高く物が売れる背景ですし、また、営業のためのコストが少なくてすむ理由にもなります。ある意味で、ブランドは信頼の証になっているところが、難しいのです。
ステレオタイプな意見かもしれませんが、日本は、他の国よりも見栄を大切にする国です。相手の面子を、相手の真の利益に優先させる結果として、裸の王様を生み出しやすい国とも言えるかもしれません。この国では、はっきりと物を言う人は、色々と不利になることは、誰もが体験を通して理解しているでしょう。
こうした背景がある中で、日本では、男尊女卑がまだ色濃く乗っています。客観的事実としては、男女の賃金格差を縮小してきたアメリカに対して、日本では、未だに、女性であるだけで、男性の半分程度しかお金を稼げないというデータがあります。
こうした状況は、少しずつ改善されてきていることも事実です。しかし同時に「男性としてのありかた」には、家族の大黒柱としてドンと構えていて、細かい家事には手を出さないというイメージが、見栄として残っていることも事実です。バカバカしい話ではありますが、そこにある事実を見ないようにしても、問題は解決しません。
介護が必要になったとき、兄弟姉妹の間で、姉妹の立場にある女性に、介護の負担が集中することは、よく見かけることです。また、夫婦の間で介護の負担が分散されておらず、妻である女性がほとんどの介護を引き受けるというケースも多く見られます。
リビングで新聞を読んでいる夫に対して、妻が「お茶を入れてよ」と頼むような世界観は、まだ日本では当たり前ではありません。その逆であれば、当たり前の光景であるにも関わらず、です。妻からすればお茶も頼めないのに、夫に介護を頼むというのは、現実的なことでしょうか。
さらに難しいのは、介護を必要とする高齢者が、こうした古い価値観に縛られていることも多いという部分です。夫に介護をやらせていると「妻は何をしているんだ」という非難を直接、間接に受けることにもなります。結局、介護に関わらない男性が守っているのは表面的な見栄ということなのです。
逆に、自ら介護に関わると決めた男性は、介護を「誰からの助けも得ないでやりきる」ことにこだわる傾向があります。それはあたかも、介護に関わらない周辺の人への当てつけに見えることがあるほど、徹底しています。これもまた見栄がそうさせるのでしょう。
男性の場合は、仕事も介護も、誰からの助けがなくてもこなせるという自分を見栄として誇示したいのかもしれません。しかし、仕事について少し思い出せば明らかなとおり、誰からの助けもなしに出せる成果など、たかが知れています。良い仕事とは、多くの場合、多数の他者からの助けがあって生まれるものです。
介護もまた、仕事と同じです。なんでもかんでも自分一人でやろうとすれば、破綻します。そもそも専門家の助けを借りない介護は、介護に関する基本的な知識を持たないままに、表面的で受け身の介護をするばかりになります。それが介護を受ける要介護者のためにならないことは明白なのです。
男尊女卑は、早急に改善しないとなりません。その影で、男性もまた見栄との戦いに苦しむことは、社会的にもっと認知される必要があります。いかに頭では男尊女卑がいけないこととわかっていても、自分よりも年下の女性が、自分よりも昇進していくという事実には、少なからぬ(現代日本の)男性は苦しむのです。
もちろん、これまではずっと、そんな男性の見栄のために、多くの女性が犠牲になってきたのです。ですから、現代という時代で、日本の男尊女卑は終わらせるべきです。しかしだからこそ、どこに乗り越えるべき壁があるのかは明らかにして、それを乗り越える支援が必要になるのでしょう。
戦争反対と叫ぶばかりでは、戦争はなくならないことと同じです。男尊女卑を生み出している背景と、それを改善するために乗り越えるべき壁を明らかにしていくことを止めてしまえば、求める成果は得られないのです。
男尊女卑からの離脱としても、より多くの男性が介護に関わっていく社会が求められます。しかしこのとき、介護に関わることになった男性は、放っておくと、どこまでも自分一人で介護をこなそうとしてしまうところには、注意が必要です。
男性の場合は、これまた見栄で「介護もまともにできないのか」という外側からの目を気にしている可能性もあり、危険です。介護は、とても一人でやれたりはしない、チーム戦(しかも長期戦)なのです。ここを認識しないままに介護に突入すれば、それこそ介護離職をしてミッシングワーカーにもなりかねません。
ここで、男性の見栄そのものを攻撃しても、あるのだから仕方がありません。それ自体がなくなるのを望むということは、本能を変えることであり、難しいことです。であれば、男性が「助けてください」と言っても見栄が傷つかない状態をつくること、すなわち、助けを求める男性が多く見られる社会を築くことが重要でしょう。
「親孝行さえできてない」という罪悪感が邪魔をすることもあると思います。もしかしたらこれは、仕事で十分な成果を出すことができず、親に楽をさせることができなかった男性のほうが危険かもしれません。仕事ではイマイチだったからこそ、せめて介護ではという気持ちになりやすい可能性もあるからです。
未だに日本には、介護のために職場を離れ、親の介護を一手に引き受けている息子を「えらい」と褒め称える価値観が残っています。しかし介護の目的地は、要介護者の幸福であって、介護をする人の見栄が満たされることではありません。そして優れた介護には、介護の専門性を持ったプロの助けが絶対に必要なのです。
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