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親が要介護状態にあり、その親の面倒を介護職(介護のプロ)にできる限り任せていると、肉体的には楽です。しかし精神的には、罪悪感としか言えないものが内側に蓄積されていきます。親が要介護状態でなくても、たとえば、親が一人暮らしだったりして、自分があまり関われていないときもまた、こうした罪悪感にとらわれます。
こうした罪悪感が生まれる理由として共通するのは、親孝行ができていないという実感です。とくに、子供のころ親に愛されたという自覚がある人は、こうした気持ちが強くなるでしょう。さらに、自分自身の生活が充実していたりすると、その光が生み出す影のように、罪悪感は大きくなってしまいます。
罪悪感は、簡単に言えば、自分が社会的な規範(常識)から逸脱しているという感覚です。ここには文化的な影響が色濃くみられるのが普通で、日本には親孝行の文化的な規範があるからこそ、こうした罪悪感が芽生えてしまうという背景があります。
罪悪感そのものは、それによって、自らの行動をよりこの社会に適応させる方向に調整する機能もあります。そもそも、人類の進化の過程で生き残っている感情ですから、生存上の意味があるわけです。罪悪感には、明らかにポジティブな面もあります。
しかし、この罪悪感が強すぎると、自分は罰せられるべきだという認識になります。これが結果として「自分は自分の人生を楽しんではいけない」といった方向に発展することも少なくありません。するとその個人の社会参加は抑制され、孤立し、孤独になっていくという可能性も指摘されています。
人間の健康にとって、孤独は、喫煙や肥満よりもずっと深刻な悪影響を及ぼすものです。罪悪感をきっかけとして社会参加のモチベーションが減退してしまうと、実質的に、自分で自分に罰を与えるような格好になってしまうのです。
ここで、罪悪感は、怒りや悲しみといった、生まれてすぐに感じられるような原始的な感情ではありません。罪悪感と恥の感覚は、どちらも、子供から大人になっていく成長の過程において、社会的な規範を学ぶことで内面化されると考えられています。
罪悪感が分類されるのは、より専門的には、自己意識的感情(self-conscious emotion)と言います。この自己意識的感情は、社会的な苦境の場面において、自分自身を他者からの目で評価(自己モニタリング)することで生まれます。
この評価結果が悪いと、自分がこの社会から不適合者として排除されるという危機意識につながります。究極的には、罪悪感というのは、自分自身が集団から排除されてしまうのではないかという危機意識のことだと考えられています。
親に介護が必要だったり、親が孤独になっていたりするとき、私たちは、罪悪感にとらわれるものです。しかしこのとき、罪悪感が喚起しているのは、自分自身が社会から排除される危機であって、親への愛情ではないことには注意が必要です。
親があなたを愛してくれているなら、親は、あなたが幸福になることを願っています。親としては、自分のために子供の幸福が犠牲になることは考えていません。子供が親の犠牲になってしまうと、親もまた「申し訳ない」という大きな罪悪感にとらわれることになります。これは、誰も幸福にならない負のループでしょう。
介護職(介護のプロ)は、要介護者が「生きていてよかった」と感じられる瞬間を生み出す専門職です。まずは元気よく自分自身の幸福追求をし、その上で親の幸福追求も支援するためにこそ、介護職を頼っているわけです。その意味で、介護職は誰にでもできる仕事ではなく、高度な専門職なのです。
それでも、もし、罪悪感に押しつぶされそうになっているなら、家族会を活用していみるとよいでしょう。家族会は、自分と同じように介護をめぐる罪悪感と戦っている人々が集う場です。そこでは、介護に関する新しい考え方やノウハウが共有されています。その中には、きっと、罪悪感との向き合い方もあるはずです。
※参考文献
・薊 理津子, 『恥と罪悪感の研究の動向』, 感情心理学研究 16(1), 49-64, 2008
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