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ある夜のこと。あなたは、自宅に帰る途中でした。そして、ある路地裏で、5人の屈強な大男が、1人の弱々しい老人に対して殴る蹴るの暴行をしているのを目撃します。周囲には、自分意外に人はいません。あなたなら、どうしますか?
すぐにこの場に割って入って、5人の屈強な大男を止めようとするのは(プロの格闘家でもなければ)無謀でしょう。とはいえ、見て見ぬ振りもできません。おそらくは、警察に通報しつつ、周囲から人を呼び集めたり、大男たちの写真を撮って後の犯人逮捕の証拠としたりするかもしれません。
では、このとき、あなたの手には(合法的に)マシンガンが握られていたとします。まず、警察に連絡するのは同じかもしれません。しかし、おそらくあなたは、5人の大男に対して、マシンガンを向けながら「やめろ!」と叫ぶのではないでしょうか。
マシンガンを持っていると、今度はむしろ、こうした事件に巻き込まれている現場を探して歩くようにもなるかもしれません。マシンガンがなければ、できれば遭遇したくない事件だったのに、マシンガンを持った途端に、自分が貢献できる事件を探すようになるのですから、面白いものです。
このたとえ話から、あなたの行動は、自分の持っている力(武器)に依存していることがわかると思います。このたとえ話の場合は、力は、暴力的なマシンガンでした。しかし、現代社会において、より広範囲に使える力と言えるのは、知識です。もう少し、詳しく考えてみます。
国家とは、簡単に言えば、税金を徴収する権利と、そうして徴収した税金の使い道を決める権利を持った存在です。国民が、その国家に税金を納めるのは、運悪く自分が社会的弱者になったとしても、守ってもらえると信じているからです。
国家が、教育(知識のない子供を弱者とする)、医療(患者を弱者とする)、介護(要介護者を弱者とする)、治安(潜在的な被害者を弱者とする)、就労支援(失業者を弱者とする)、貧困対策(十分な収入が得られない人を弱者とする)といったテーマを政争の軸とするのは、こうした背景があるからです。
弱者というと、言葉として嫌なイメージがあるかもしれません。しかし、こうした国家による弱者救済の施策は、その後の自立に向けて動いているという点には注目しないとなりません。要するに、弱者の救済とは、弱者からの脱却(国家の支援が必要ない強者の育成)という側面が色濃くあるということです。弱者とは、固定的な個人のことではなくて、置かれている状態のことを指す言葉だと理解すればよいと思います。
日本の場合「ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」(日本国憲法前文より)を、日本人のみならず、全世界の人々に届けることを存在意義としています。日本国憲法とは、すべての日本人に共通する理念ですから、私たち一人ひとりの活動は、この偉業を達成することに貢献しているべきなのです。
しかし現実には、財源が足りないという理由から、日本でも少なからぬ社会的弱者が切り捨てられています。介護においても、介護保険制度の改悪が続いており、介護殺人や虐待は、減るどころか、どんどん増えてきているというのが実情です。
私たちは、日本国憲法という理念を共にする限りにおいて、路地裏で暴行を受けている老人を無視することはできません。しかし、自分に力(武器)がなければ、積極的にそうした状況を改善しようとはしないのです。
社会的弱者の救済についても同じことです。自分に力がなければ、私たちは、それを無視するようにできています。無視しないと、自分の無力感にさいなまれ、自分の存在を否定することになってしまうからです。しかし、いかに無視しようとも、私たちは深層意識において、自らの無力感を認識してしまいます。
自分のことだけで精一杯、というのは、自分は無力であるというのを認めることです。同時にそれは、日本国憲法の理念に反することでもあります。
日本国憲法を持ち出すまでもなく、人間は、他者の役に立つことから自己重要感(自らの存在が社会的に認められているという満足)を引き出すことがわかっています。そして、この自己重要感のあるなしが、個人の幸福感にも直結しているのです。
生物学という側面からも、これはとても興味深いことです。社会的弱者の救済ができる個体には、幸福感が与えられているわけです。幸福感というのは、脳内の褒賞であり、脳がそうした活動を奨励しているということでもあります。それにより、種の保存(遺伝子の保存と継承)が可能になるからでしょう。
つまり、路地裏で暴行を受けている老人を救う力は、私たちを幸福にするということです。このたとえ話は、治安に限定されているものです。治安以外のほとんどのテーマにおける社会的弱者の救済に必要な力とは、マシンガンのような武器ではなくて、知識という武器なのです。
介護が客観的に考えて、いかに大変なものであるか、それについては、何も言うことがありません。しかし、要介護者や経済の状態が似たようなものであっても、介護者の主観的な負担感は異なります。ここの鍵になるのも、知識のあるなしです。
知識がない場合、介護は、要介護者の希望に振り回されるばかりになります。これは受け身であり、バタバタしているだけで時間が過ぎていきます。自分なりに一生懸命やっていても、無力感に襲われることもしばしばでしょう。
これはちょうど、屈強な大男に襲われている老人を見て、警察に連絡するしかない状態に似ています。心身の障害に襲われている要介護者を見て、介護職(介護のプロ)に連絡するしかない状態だからです。
しかし、心身の障害との戦い方についての正しい知識を武装したら、どうなるでしょう。要介護者に振り回されるという状況に対して(少しは)積極的に対応できるようになるはずです。それにとどまらず、家族会などで、介護に悩む他者の助けになるようなこともできます。
介護というテーマにおいては、要介護者だけでなく、介護知識をもたない介護者(家族)もまた、社会的弱者なのです。その救済に必要なのは、介護の知識であり、その勉強です。まずは、介護に苦しむ自らの救済のためにも、介護を勉強していきたいです。そしていつか、他者を救うためにも、その知識を役立てていただきたいと思います。
いっしょに、がんばりましょう。
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