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女神クーラの神話;人間とはケア(介護)をする存在である。

女神クーラの神話

ドイツの哲学者、マルティン・ハイデガー

20世紀の哲学者の中でも、最も重要な存在の1人とされるマルティン・ハイデガー(Martin Heidegger;1889〜1976年)は、社会福祉においても重要な提言を行っています。ハイデガーの主著とも言われる『存在と時間』の中(第42節)にある「女神クーラの神話」は、人間を「ケアの中に生まれ、ケアとともに生き、そしてケアの中に死んでいく存在」として主張しています。

なお、この神話はハイデガーの創作ではなく、ゲーテやキルケゴールにも影響を与えていると言われます。また、女神の名前「クーラ(cure)」は、ラテン語であり、英語の「ケア(care)」とは、厳密には違う言葉とされます。ただ、言葉の意味としては重なりが多いため、歴史的には「女神クーラ」=「ケアの女神」とされます。実際に『存在と時間』の英語版では「cure」は「care」と翻訳されているそうです。

ハイデガーによる「女神クーラの神話」の引用

かつて女神クーラ(気遣いの神)は、川を渡るや、粘土の土地を見つけた。思いにふけりつつクーラはその一塊を取りあげ、形づくり始めた。

すでに作りあげてしまったものに思いをめぐらしている間に、ユピテル(収穫の神)がやって来た。ユピテルにクーラは、形をえたその一塊の粘土に精神を授けてくれと願い、ユピテルは喜んでその願いをかなえてやった。

ところが、その像にクーラが自分自身の名前をつけようとしたとき、ユピテルはそれを禁じて、自分の名前こそそれに与えられるべきだ、と言った。

クーラとユピテルとが名前のことで争っている間に、テルス(大地の神)もまた立ち上がって、自分の身体の一部をその像に提供したからには、自分の名前がそれにつけられるべきだと望んだ。

彼らは、サトゥルヌス(時間の神)に裁きをあおぎ、彼はもっともだと思える次のような裁きを下した。

「なんじユピテルよ、なんじは精神を与えたゆえ、この像が死ぬ時には、精神を受け取り、なんじテルスよ、なんじは身体を授けたゆえ身体を受け取るべし。だがクーラはこのものを最初に作り上げたゆえ、それが生きている間は、クーラがそれを所有するがよい。ところが、その名前についてなんじらが争っている以上、それは明らかにフームス(地)から作られているのだから、ホモ(人間)と名付けるがよかろう」。

ハイデガー/原佑・渡邊二郎訳『存在と時間Ⅱ』中公クラシックス(2003)の記述を修正

人間は「ホモ・サピエンス(homo sapiens)」なのか?

現代では、人間を「ホモ・サピエンス(=知性を持ったヒト)」と呼びます。しかしそれは、クーラ、ユピテル、テルスの喧嘩の仲裁に当たったサトゥルヌスが「やれやれ」という気持ちで付けた名前だったわけです。

生きている人間を表現するなら、それはむしろ「ホモ・クーランス(homo curans)」、すなわち「ケアをするヒト」となるはずです。クーラ(ケア)が人間を所有しているのですから、人間は「ケア」を通して人間らしい存在になるとも言えます。

「ケア」とは、人間の余裕が生み出すようなものではなくて、むしろ人間の本質と考えられてきました。そうした根源に立ち返るとき、英語では「care」と訳される「介護」の意味もまた、違って見えてきます。人間とは、そもそも「介護」をする存在であり、それは人間を人間たらしめる根源的な特徴とも言えるのですから。

※参考文献
・森山千賀子, 『介護者支援のための新たな視座の考察 -ケアの論理を手がかりにして-』, 白梅学園大学・短期大学, 教育・福祉研究センター研究年報, No.19, 3〜15(2014)
・三浦秀春, 『HOMO SAPIENS(faber)からHOMO CURANSへ ─3.11で迫られる「人間観」の再考(「哲学」の転換)─』, 公開講座, H24年度, 第1回
 

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