KAIGOLABの最新情報をお届けします。
今も、介護福祉士としての私の記憶に強く残っている要介護者がいます。Aさんは、60代前半の男性の方で、一人暮らしをしており、天涯孤独の方でした。Aさんは、一人の人間として、私に対して大きな問いを投げかけて下さった方です。
初めてのサービス利用の日、私はAさんが住むアパートにデイサービスのお迎えに行きました。ところが玄関を開けると、出てきたのは東南アジア系の少女でした。片言の日本語で、Aさんはいないと訴えていました。アパートの奥からは、強面の中年男性がドスの効いた声で「Aはいねぇよ」と言っていました。
やむなく車に戻ろうとしたところ、そこに車椅子を足こぎしたAさんが現れました。裸足で、その足からは血を流しながら「俺だよ俺、連れて行ってくれよ」と言ったのがAさんでした。その時のAさんは、身なりは汚く、何よりものすごい尿臭がしました。
車に乗ったら、なおさら車中にその臭いが充満し、私はめまいがするほどでした。デイサービスで入浴介助をしようにも、着替えもなく、何より室内に入れることも憚れるほどの汚染状態だったのです。路上生活の方でもここまで汚染されることは少ないと思えるほどでした。
オムツを3重にして履かれ、車椅子の座面は尿がしみ込んでいました。やむなくデイサービスから衣類を貸し、着ていたものは処分し、車椅子は外で何度も洗って天日干ししました。しかし、その次の来所までには、Aさんはまた同じ汚染状態にリセットされていました。もちろん着替えは無く、貸し出した衣類はすっかり汚れていました。
ある時、私がヘルパーとして自転車を漕いでいると、ゴミ箱を漁るAさんに出会いました。彼は週刊誌を拾い、それを古本屋に売って日銭を稼ぐと笑っていました。またある時は、警察から連絡があり駆けつけてみると、駅前の公園の公衆トイレで体と衣類を洗って、半裸の状態で衣類を干しているところでした。
Aさんの家に居た男性は傷害事件を起こし、逃亡している“そちら系”の人でした。一緒にいた少女はAさん曰く「あいつの愛人」とのことでした。2人が隠れているために、Aさんはアパートを追い出され、生活保護費は彼らに巻き上げられているために、家に帰れないとのことでした。私の事業所にも、警察の方が聞き取りに来たりしました。
ある時は、自宅に不在で行方不明になってしまい、探し当てたら病院に入院していました。病院がホテルがわりでした。糖尿病を患っていたAさんは、処方されたブドウ糖をスナック菓子のようにバリバリ食べていました。そして薬は“オトモダチ”に転売していました。本当に色々な日本の闇が詰まっているケースでした。
そんなAさんは、当然のように、私が勤務していた介護事業所には、お金を支払うことができませんでした。そして、紆余曲折があった後、お友達カップルは立ち退きました。そうしてやっとAさんは自宅へ帰れたのですが、床は一面尿が染み付いていました。室内に入るだけで頭痛がするレベルです。
害虫やネズミもたくさんいました。そんな中でも彼にとっては自宅です。Aさんはそのような状況下で生きていましたが、デイサービスでは若い部類なので、認知症のおじいさん、おばあさんに可愛がられ、楽しそうにお話しして過ごされていました。
本人曰く「こんないい人に囲まれるところもあるんだなぁ」とのことでした。Aさんは、職員のサポートをしたり、大工仕事なども手伝ってくださいました。たとえどんな人でも、その人を1人の人格を持つ方として尊重する場があれば、人は他者とともに生きられるということを私は心の深いところで学びました。
ですが、そんなAさんとも別れがきました。Aさんは生活保護費で支給されていたタクシー券を転売していたのです。それを知った生活保護科のケースワーカーさんはたいそう怒ったそうです。聞いた話ですが「あんたには血税を一円足りとも出さない!」と言われたそうで、Aさんの生活保護は打ち切られてしまいました。
冬の寒い頃でしたが、電気ガス水道が止められたAさんは、寒さをしのぐために、自宅でフライパンに割り箸を入れて火を焚いて暖を取っていたのです。それが大家さんに見つかり、追い出すための良い口実ができた大家さんは、Aさんに最後通告を出したのでした。
住所も失い、生活保護も打ち切られたAさんは、私の勤務していたデイサービスにも来られず、何もできない私たちに捨て台詞を吐いていなくなりました。それから数週間経ったころ、電車に乗っていると、突然Aさんが乗り込んできたのです。
元気そうに挨拶を交わしましたが、車内は異様な空気に包まれ、乗客は私とAさんから一定の距離をとって離れました。Aさん曰く、住むところと食事を提供して、さらにお小遣いまでくれる“いいトコ”を見つけたそうです。
話を伺っていると、生活保護受給者に集団生活をさせて保護費を天引きしている、いわゆる貧困ビジネスのところにご厄介になっているようでした。嬉々として「いい暮らし」と言いながらAさんは目的の駅に降りて去って行きました。
Aさんとの話を人に話すと、介護業界人でも反応が割れます。もちろん一般の方々に話すと、ほとんどの人が本音ベースでは「そんな人は救う価値はない」と言います。では、どんな人ならば救う価値があって、どんな条件ならば救う価値はないのでしょうか。
実際に、私は、地元の友人にAさんの話をしたとき、この友人には「なんの生産価値もない人間に、俺たちが汗水垂らして納めた税金を使うことは、理解はできるけど納得はできない」と言われました。皆さんは、どう思うでしょうか。
もちろん、Aさんのような人に直接的な支援をするのは、私たち介護福祉などの専門職です。私たちは人権を保障する職業として、たとえどんな人であろうと支援します。とはいえ、Aさんくらい支援が困難な方の場合は、契約を打ち切ったり、そもそも契約をしないという事業者も少なくないでしょうけれど。
しかし、支援をする私たちの原資は、国民の税金と保険料などでまかなわれています。つまり、私たち自身も含めた、国民の皆さんが費用負担しているのです。私たちは、この事実をどのように受け止めるでしょうか。
誰は支えて、誰なら支えないのでしょう。認知症の人なら支えるけれど、精神疾患の方は支えないでしょうか。裕福な人は支えても、貧困の方は支えないでしょうか。周囲に優しい人は支えても、わがままで拒否がある人は支えないでしょうか。生産性がある人や納税できる人は支えても、税を消費するだけの無生産な人は支えないでしょうか。
私とあなた、あなたとその人の違いはなんでしょうか。直接的な支えをする家族介護者はもちろん、私たちは間接的にそうした人たちを支えています。難しい問題ですが、少しずつではあっても、社会的なコンセンサスを得ていくべきものです。安易な解答を受け付けない問題であるからこそ、議論が求められています。
KAIGOLABの最新情報をお届けします。