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運転免許の返納が難しい経済学的な背景(功利主義)

運転免許の返納が難しい経済学的な背景(功利主義)

自主的な免許返納では不十分

高齢ドライバーによる悲惨な事故が相次いでいます。周囲でも、高齢になった両親の免許を返納させるという話題が増えてきました。しかし、現実の免許返納は、なかなか進んで行きません。返納数としては増えてはきていても、実質的な高齢ドライバーの数を考えると、焼け石に水なのです。

2017年の時点で、75歳以上で運転免許を持っている人は約513万人います。これは、75歳以上の人の3人に1人という割合です。2015年よりも約35万人増えており、高齢化によって、今後も、高齢ドライバーの数は増えていくことが予想されています。

もちろん、事故を起こすのは高齢者だけではないし、自動ブレーキ搭載車など、事故防止に努めているドバイバーとそうでないドライバーを並列で語ることもできません。同時に、加齢にともなう人間の身体的な衰えもあり、どこかで、免許の返納についての線引きは必要になるでしょう。

何かを得るときと、失うときの違いについて

経済学的な側面から考えると、免許の返納が心理的に難しい背景が理解できます。人間は、全く同じ富であっても、何かを得るときと、失うときで、そこから受ける影響の大きさが異なるのです。まずは、以下の図をみてください。ある人が1万円を得たときと失ったときの満足度の変化を示しています。

効用の変化

このように、人間は、同じ富であっても、それを得たときの満足度の向上と、失ったときの満足度の低下は同じにはならないのです。運転免許も富の一種だと考えれば、免許返納は「運転できる喜びを失う」のではなく「運転できる喜びの何倍もの満足度を失う」というのが事実になります。

正確には、これはジェレミ・ベンサムによる功利主義(最大多数の最大幸福)の考え方を基礎としています。所得の再分配も、富裕層が1万円を失って減らす満足度よりも、貧困層が1万円を得て高める満足度の方が大きいとき、それは社会的な正義とされます(累進課税の正当性)。

代替として得られる別の富が必要

功利主義の考え方からすれば「運転できる喜びの何倍もの満足度を失う」ことになる高齢ドライバーには、単純に「運転できなくても生活できる公共交通」があればよいということにはならないのは明白です。

ただでさえ、老いるということは、様々な喪失(8つの喪失モデル)をともなうことです。色々な喪失の上、さらに、免許まで失うことの心理的な厳しさは、現役世代にはなかなかイメージできないことなのです。

とはいえ、免許返納に対して、大きな予算を捻出する訳にも行きません。ただ、報酬には金銭的な報酬だけでなく、非金銭的な報酬(例えば名誉など)もあります。それこそ、先の池袋事故の記事でも取り上げた運転卒業式のようなものも、そうした非金銭的な報酬の1種になります。

高齢ドライバーの免許返納は、急務です。近い将来、年齢制限が設けられると考えられますが、それまでは、できるだけ自発的な形での返納が望ましいはずです。なんとか、悲惨な事故がなくなるよう、具体的な方策が求められています。

※参考文献
・内閣府, 『高齢者に係る交通事故防止』

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