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高齢者として生きるということは、パットムーアが3年に及ぶ調査で明らかにした通り、社会から無視されるような体験をすることです。仕事を引退していればなおさら、自分がお金を使うときくらいしか、誰にも相手にされなくなります。
もちろん、仕事を引退してからも、趣味などで仲間と楽しく過ごしている人もたくさんいます。ただ、そもそも現代社会には年齢差別(ageism)が存在しており、その影響は、一般に信じられている以上に大きいというのは、高齢者になってみないとなかなかわからないものです。
そうした背景から、当時26歳の若者だったパットムーアは、85歳の老人に変装をして実態調査をしたのです。今や、実態調査をしなくても「キレる高齢者の背景」として、同じ話が、満たされない承認欲求(社会から無視されてしまうことの裏返し)として認識されるようになってきました。
運がよければ、配偶者や子供、孫に囲まれて、充実した高齢者ライフが送るとこともできるでしょう。しかし、そうした状況も、配偶者に先立たれ、子供や孫との関わりも疎遠になってきたりすると、日々の意味が違ってきます。
特にこれといって趣味もなく、つながりも希薄であれば、毎日、朝から晩まで、誰とも話をしないようにもなります。高齢者になるほどに、嫌が応にも、テレビを見て過ごす時間が増えてしまうのも仕方のないことです。
テレビを見て、寝て、また起きて、コンビニに買い物に出て、またテレビを見るという生活が、心身の健康に良いはずもありません。かといって、外出しても、誰かから話しかけられることもなく、幸せそうな家族連れの姿を見れば、どうしても惨めな気持ちにもなってしまいます。
こうした状況には、誰でもはまってしまう可能性があります。ここまで至ってしまうと、誰かから、何かに誘ってもらえるといったことがないと、動けません。しかし、昔のように、高齢者が地域の重鎮として敬われるようなこともなく、ただ、日々が過ぎていきます。
そうして、イライラすることが増えるのは、自分が社会から疎外されていることを、肌で感じるからではないでしょうか。「いても、いなくても同じ」と言われているような気分にもなれば、キレやすくもなります。
そんな時に、長年の親友の訃報に触れたりもします。親友の数は、7年ごとに半減すると言います。新たな親友を作るのは、高齢者になってからでは、どうしても難易度が上がります。そもそも出会いがないのですから。
そんな生活が続くと、自分にも介護が必要な時が訪れます。むしろ、孤独でいる時間が長いほどに、要介護状態になりやすいということもあります。すると、これまで関わりのなかった介護のプロ(介護職)とのつながりが発生するようになります。
介護のプロは、人間の尊厳を守るためのトレーニングを受けている専門職です。そんな介護のプロが、高齢者にとって重要で(ほぼ)唯一の人間関係を提供することになるケースは少なくありません。
介護のプロたちと話をしていて、よく話題になるのは「もっと早くから利用者に関われていたら、利用者の状態は今ほど悪化しなかった」という感想です。しかし、そもそも、そうして状態が悪化したからこそ出会えるのが介護のプロだったりもします。
ただ尊厳を持って生きることが難しい社会だからこそ、介護のプロが必要になるという側面もあると思うのです。もし、ここにいくばくかの真実があるとするなら、高齢者が高齢者だからという理由で無視されず、普通に社会の中に居場所のある状態を作ることが、高齢者福祉の本当の目的地ということになります。
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