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何も決めないで着地すれば、自分の責任にはならない

何も決めないで着地すれば、自分の責任にはならない

「今晩、何食べたい?」

「今晩、何食べたい?」という質問を受けたことがない人は少ないでしょう。子供の頃であれば、自分の好物を指定していたかもしれません。しかし年齢が上がってくると、そうした質問に対して「なんでもいいよ」と答えるようになってはいないでしょうか。

しかし、夕食を作ったり、レストランを予約する人からすれば「なんでもいいよ」という答えは、一番困ります。今晩の食事の内容を、全て、自分で決めなければならないからです。そして「なんでもいいよ」と答える人たちは、本当は、なんでもよいということはなく、結構、うるさいのが普通です。

「なんでもいいよ」と言われたからといっても、基本的には、美味しいことは求められます。不味いものは「なんでもいい」には含まれません。しかも、他人が美味しいと感じるものは、それぞれの好みで違ったりもします。決める人は、そうした好みや気分、季節や流行に配慮した上で、決めるのです。

そのようにして、意思決定を委ねられて、食べるものを決めたところ、後になって文句を言われた経験がある人も多いのではないでしょうか。後になって文句を言うくらいなら、初めから「なんでもいい」なんて言わなければいいはずなのに、です。

責任回避における定番の方法

夕食を何にするか、といった、どうでもいいことでさえ、私たちは、その中身を考えて結果に責任を持つことを回避する傾向があります。むしろ、自分が決めてしまえば、他の人から文句を言われる可能性があるからです。決める側からすればズルい態度ですが、現実とはそういうものでしょう。

大人のマナーとしては、誰かに意思決定を預けたら、その結果が悪くても、文句は言わないものです。しかしそれでも、文句は言わないだけで、心の中では、その結果を評価している訳で、それを言葉に出して言うか言わないかの差にすぎません。

たかが夕食でさえ、この状況です。であれば、例えば介護施設を選ぶときや、介護の方針を決めるとき、限られた予算の中で介護サービスを選ぶときなどに、同様のことが起こらないはずもありません。

特に、兄弟姉妹の間で、親の介護を巡ってトラブルになるような場合は、意思決定には関与しなかった人が、意思決定がなされてから文句を言うと言う形で発生しやすいように思います。「文句はいいから、お金を出して欲しい」という話は、よく聞く話の鉄板です。

日本の社会福祉政策もまた同じではないか?

介護を含めた、日本の社会福祉は、非常に危険な状況です。財源の確保が追いつかず、このままでは、社会福祉が崩壊すると考えている人は少なくありません。抜本的な改革がなければ、どう考えても、悲惨な未来がやってくるのです。

本来であれば、国会では、社会福祉をどうするのかについて話し合われる必要があります。しかし野党からは、重箱の隅を突くようなことが繰り返し突き上げられ、与党は与党で、これまでのやり方を続けていけば問題ないといった空気が蔓延しているように感じられます。

ここには「今晩、何食べたい?」と同じような話があるのではないでしょうか。日本の社会福祉を改革するには、歳出の徹底的なコスト削減による原資の確保と、そうして確保された原資を社会福祉に流すことが求められます。しかし、そうした改革を進めれば、既得権を持っている人は急に苦しくなります。

仮に、そうして既得権を持っている人の抵抗を無視して改革を進めたとしても、その改革が成功する保証はどこにもありません。今のままでは崩壊してしまうのですが、例えばベーシックインカム制度のような抜本的な改革をしても成功するかどうかわからないとき「どうしますか?」と聞かれても困るわけです。

こうした背景から考えても、歴史に汚名を残すことになるリスクを追ってでも、この抜本的な改革を主導するような政治家は、なかなか出てこないものです。しかし、そうした政治家の登場がなければ、日本の未来は、想定されている通り悲惨なものになってしまいます。

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