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大きく変化する環境においては、過去の常識が、新たな環境に適応するための邪魔になることがあります。介護という文脈でも「親の介護は子供がするべき」「介護を親族以外の人に任せるのは恥ずかしい」「親が歳をとったら同居すべき」といった過去の常識が問題になることがあります。
もちろん、全ての常識が間違いということではありません。それに、どのような考えを持つかどうかは、当然、個人の自由です。同時に、ただ常識にしたがって生きることが良いという訳でもないはずです。
例えば、少子化が進んでいる現代社会においては、親の介護を子供が行うということは、過去とは異なり、より少ない兄弟姉妹で、より多くの高齢者を介護することを意味します。1人っ子が、2人の両親の介護を直接することになれば、介護離職も避けられないでしょう。
現役世代に当たる子供が、介護の負担によって、仕事に集中できなくなれば、どのようなことになるのでしょう。まず、現役世代の生産性が低下し、企業収益や個人の所得は下がるでしょう。そうなれば、社会保障のための国の財源(税収など)が低下します。
社会保障のための国の財源が低下すれば、高齢者1人あたりに使える国の費用が減ります。そうなれば、家族が担うことになる介護の負担は上がってしまいます。介護の負担が上がれば、現役世代の生産性はさらに低下することになります。
「親の介護は子供がするべき」という過去の常識で、日本全体がこうした未来に突入してしまえば、大変なことになるのです。過去の価値観からは非常識かもしれませんが、どうしても「親の介護は介護のプロが行うべき」という新しい価値観を根付かせないとならないわけです。
常識とは、その社会の構成員に共通する知識や価値観のことを示した言葉です。そうした常識には、歴史的な背景があることが普通ですが、常識だからといって、必ずしも普遍的な真理から生まれている訳ではありませんし、そもそも、間違っていることもあります。
例えば、かつて欧米で広く医療の常識とされてきた瀉血(しゃけつ)は、何らかの病気に苦しむ患者の血を抜くという治療法です。現在では、瀉血は、一部の本当に科学的な根拠のある場合をのぞいて、間違いとされています。モーツァルトは、この瀉血によって死んだと考えられています。
余裕のある社会であれば、多少の非合理は問題ないのかもしれません。常識の裏には、思いもよらない、合理的な理由がある場合もあります。しかし同時に、新たしい時代の新しい考え方が必要になるとき、過去の常識を見直さないとならないこともあるでしょう。
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