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これまで、日本に限らず多くの国において、高齢者とは65歳以上の人のことを示す言葉でした。しかし医学的な視点からも、現代人は、過去の人よりも10歳程度は若いという指摘もあり「65歳は高齢者ではない」という意見も増えてきています。
この医学的な視点を前提としたところに、労働力不足や年金不安といった様々な要因が重なって、社会全体が「高齢者は75歳から」という方向で意見を一致させつつあります。これに対する大きな反対意見もなく、社会合意に至る可能性が高い話になっているでしょう。
ただ、どうしても気になるのは「高齢者は75歳から」ということに賛成するときの立場の違いです。それぞれに立場で、これに賛成する理由が異なっており、そうした自分とは異なる背景の認識が進んでいいように感じます。そこで今回は、以下、高齢者の定義をめぐる論点をざっくりと整理してみたいと思います。
まず、医学的に考えて、人間の心身の健康状態には、年齢による傾向が統計として認められるかというところが保守本流でしょう。そもそも特定の疾患と年齢に相関がなければ、高齢者というカテゴライズ自体が、単なる年齢差別になってしまいます。高齢者としてラベリングするからには、特別な支援が必要であることを医学的に説明できなければなりません。特に、一般には平均ばかりが考慮されますが、中央値や分散といった統計の重要な概念について、医学と一般の認識ギャップがあってはなりません。とはいえ、発達や老化という現象までは否定できない以上、人間の年齢に階層を適用し、それぞれに、なんらかの特別な対応が必要であることまでは事実でしょう。
社会的には「現役を引退する」ということが広く価値観の一部になっています。ただ、プロのスポーツ選手であればともかく、一般の人が、本当に現役を引退する必要があるのかというと、疑問もあります。「余生を楽しむ」という価値観は、実際の引退後の生活を観察すれば虚像であることは明らかです。昔であれば、現役を引退して隠居をする人の数自体が少なかったため、そうした人は、周囲からケアされ「余生を楽しむ」ことができたかもしれません。しかし現代において現役を引退してしまうと、社会との接点が失われ、消化試合のような人生に苦しむ人も多数います。では「生涯現役」がよいのかというと、それも行き過ぎのようなイメージがあります。
福祉国家である限り、高齢者としてカテゴライズされた人には、必要とされる最低限の支援が行われます。逆にいうと、高齢者として定義されない人は、こうした支援を受けることができません。つまり、国からすれば、数としての高齢者が、そのまま、社会福祉財源の流出を意味するわけです。自社の商品のよさをしつこく力説する営業は信頼ならないでしょう。これと同じで、特定の正義が実現すると儲かる人が、声高にその正義を主張する場合、その人は(真意はどうであれ)信頼できません。高齢者の定義となる年齢を上げることは、国にとっては儲かる話です。ですから、高齢者の定義について、社会福祉財源の有利性以外における、国による耳障りのよい主張は、話半分に聞いておく必要があります。
営利をめざす民間企業の視点からも、高齢者の定義問題は、非常に大きなものです。特に厳しい法律によって従業員の解雇ができない日本においては、これまでは「高齢者=定年退職」ということになっていました。これは、日本にも存在する、隠された従業員の解雇です。ですから「高齢者は75歳から」となったとしても、定年退職は65歳として維持したいのが民間企業の本音でしょう。民間企業としては、従業員を解雇する権利さえ認められたら、高齢者の定義が65歳でも75歳でも、どちらでもいいということになります。その意味から、民間企業が本音で警戒しているのは、75歳までの正社員雇用の義務化です。定年延長という話も盛り上がっていますが、それは正社員としての定年延長ではなく、非正規の職員に切り替えた上での雇用継続にすぎないかぎり、民間企業はこれを問題視しないでしょう。
高齢者扱いされることに、嫌悪感のある人も多数います。社会的弱者として周囲に認識されたくないという恥の文化も背景にはあるでしょう。また、そうしたラベリングによって、自分が一気に老けてしまうことを怖く感じているからだとも思います。とはいえ、受けられる支援とは既得権のことですから、わざわざ、交通機関や公共設備が割引で使えたりするといったことを手放したくはないのが人情でしょう。こうした高齢者本人の視点からは、シルバーシートのように「わかりやすいラベリング」は、できるだけ上手に隠していくノーマライゼーションが大事になりそうです。
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