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定規を手に持ってはいけない。目に持つことが大切なのだ。ミケランジェロ

ミケランジェロの『ピエタ』
ミケランジェロの『ピエタ』(CC0 Creative Commons)

ミケランジェロの『ピエタ』

ミケランジェロ(Michelangelo / 1475〜1564年)は、西洋美術の世界では最高の芸術家の1人と数えられる天才です。ミケランジェロ自身は、自らのことを彫刻家と考えていたようですが、絵画や建築といった分野においても、後世に大きな影響を与えています。

そんなミケランジェロが20代前半(1498〜1500年)に製作した『ピエタ』という作品があります。『ピエタ』とは、本来は十字架から降ろされたキリストの亡骸を抱く聖母マリアをテーマとした作品の総称です。しかしもはや『ピエタ』と言えば、このミケランジェロによる彫刻(サン・ピエトロ大聖堂にあるもの)の代名詞になっています。

それだけ、このミケランジェロによる『ピエタ』が圧倒的な存在感を示したのは、この彫刻が(契約とは異なり)等身大ではなかったからです。キリストのほうは、ほぼ等身大だったのですが、マリアのほうは、立ち上がれば2メートルを超える大きさで、とても等身大とは言えないものなのです。

さらに、過去の『ピエタ』をテーマとした作品でよく表現された「年老いたマリア」のイメージは、このミケランジェロによる『ピエタ』では全く見られません。それどころか、マリアのほうがキリストよりもむしろ若く見えることには、ミケランジェロの存命中にも多数の批判があったと言います。

こうした批判に対して、ミケランジェロは「定規を手に持ってはいけない。目に持つことが大切なのだ。なぜなら、製作は手で行うが、判断は目でするからだ。」と答えています。ミケランジェロは、単純な写実性を排した「魂のイメージ」を目指す、真に時代を超越した芸術家だったのです。

人間は世界を定規で見てはいない

定規(じょうぎ)は、正確なコミュニケーションにとって欠かせないものです。物の長さのみならず、重さや時間といった様々な物事を客観的に判断するためには、どんな場面においても(広い意味での)定規が必要になります。

逆に言えばこれは、人間が主観的な存在であることを示しているでしょう。それぞれに異なる目で主観的に世界を観察しているからこそ、人によって世界の見え方は変わります。定規が必要なのは、そうした個人間の主観の違いを統一することが必要な場面において、です。

しかし、私たち人間は、そもそもが主観的な存在です。ですから、それぞれに異なる「魂のイメージ」を持って、この世界を見ていることを忘れるべきではないでしょう。ミケランジェロの『ピエタ』が時空を超えて教えてくれるのが、この事実です。

高橋原先生(東北大学准教授)の論考に『幽霊を見たという人に僧侶はどう向き合うか』というものがあります。これは、東日本大震災後に、そうした相談が僧侶に寄せられることが多かったことに対する考察です。

この論考が示したポイントは、僧侶(宗教者)は、こうした相談に対して、幽霊がいるかいないかという客観的な事実ではなく、相手には幽霊が見えたという主観的な事実を受け止めることが大切というものでした。ここにも自分とは異なる他者による「魂のイメージ」をケアする大切さが認められます。

認知症ケアのポイントのひとつとして

この話は、認知症の介護においても、重要なヒントになるのではないでしょうか。認知症に苦しむ人が見ている主観的な世界を、客観的な事実で否定しようとしても、うまく行かないことは明白だからです。

心身ともに健康な状態の人間同士でさえ、お互いの世界の見え方を合わせるには、定規が必要なのです。健康な人と、心身が弱っている人との間には、想像を絶するほどの見え方の相違があると考えるべきでしょう。

ここには、前提として「魂のイメージ」の断絶があるわけです。この前提を無視して、ミケランジェロのマリアが若すぎるという批判をすることは、実に馬鹿げたことでしょう。そして、他者とは異なる世界の見え方を持っていることは、もしかしたら、時空を超越する美しさの中にあることを意味するかもしれないのです。

もちろん、認知症の介護においては、その本人から不安の要素を取り除くことが第一のケアになります。美しさよりもむしろ、恐怖にとらわれてしまっていることも多いでしょう。そうした、しっかりとした専門性に立脚するケアが(まずは)大事であることは当然です。

同時に、認知症に苦しむ人が持つ「魂のイメージ」の中には、きっと、私たちには見えていない美しい世界もあるはずです。アール・ブリュット(art brut)まで行かなくても、認知症ケアを通して、そうした自分とは異なる「魂のイメージ」に触れていくことは、私たち介護者にとっても大切なことではないでしょうか。

※参考文献
・摩寿意 善郎, ‎『ミケランジェロ 1475-1564』, タイムライフ, 1969年
・高橋 原, 『幽霊を見たという人に僧侶はどう向き合うか』, 月刊住職, 2014年5月号

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