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「くやしい」という感情は、とても大切です。その感情自体は、誰にとっても嫌なものです。おかげで眠れなくなったりするでしょう。しかしこの感情がないと、人間の成長は止まってしまう可能性もあるのです。
まず「くやしい」とは、どういうことでしょうか。
簡単に言ってしまえば「くやしい」という感情は、自己評価(自分による自分の評価)と他者評価(他者による自分の評価)の間のギャップを示すものです。より具体的には、高い自己評価に対して、低い他者評価がなされるとき、私たちは「くやしい」と感じるのです。
そもそも人間には、自己評価が他者評価よりも高くなる傾向があります(心理学的には社会的比較などを背景としています)。ですから、実は、私たちは日常的に「くやしい」という思いをするようにできているのです。
「そのようにできている」ということは、そこに「生物進化上の意味がある」ということでもあります。では「くやしい」という嫌な思いをすることに、いったいどのような意味があるというのでしょうか。
大人になるまで、私たちは何度も「くやしい」という感情にとらわれてきました。しかし、そうしたことがあってこそ、私たちは、高い自己評価(プライド)を守るために、頑張って「背伸び」をしてきた(成長してきた)という側面もあります。
たとえば、多くの部活動には、トーナメント戦による他校との競争があります。トーナメント戦は、優勝する1校以外には「くやしい」気持ちを残すように設計されています。ライバルの存在が重要なのは、ライバルは、私たちの中に常に「くやしい」という感情を生み出してくれるからです。
逆にいうなら、この「くやしい」という感情がなければ、私たちは「今のままの自分」を肯定してしまいます。するとそれ以上、自分自身のあり方を変化させられず、成長もなくなってしまうでしょう。それは「井の中の蛙」を止められないということであり、危険なことです。
私たちはこのように、大人になるまでに、自分の「くやしい」気持ちと向き合うノウハウをぞれぞれに学んでいます。それは、言うほど簡単なことではありません。大人になってからも、ずっと昔の「くやしい」思いを引きずったりもしています。しかしそれも、ある意味で、人生の宝物なのです。
この気持ちと向き合うノウハウが学べていない人は、短期的に他者から認めてもらえないという事実が受け入れられません。すると、成長を求めて頑張るのではなく、未熟なままの自分に対して高い評価を付けてくれる他者(白馬の王子様)を探し続けるという「むなしい世界」にはまってしまいます。
学生時代の部活動であれば「くやしい」思いをしたら、他者を見返すために、部活動をもっと頑張ればよいのです。学生時代の勉強でも「くやしい」思いをしたら、勉強を頑張るしかありません。実際に、部活動や勉強で、十分に「くやしい」思いをしたことがないと、どちらも、あまり良い成績が残せていなかったりします。
しかし社会人になると、ここの事情が異なってきます。部活動におけるトーナメント戦や、勉強における試験結果とは異なり、社会人の評価は、客観性が怪しいものになるからです。十分に頑張って結果を出したはずなのに、低い人事評価が与えられるようなことは、社会人には日常的にあります。
これは、社会人の他者評価には大きく主観が入るためです。あまり客観的でないので、そこには自己評価と他者評価のギャップを埋めるための「説明の余地」が生まれます。この説明が上手いと、上司から可愛がられるようになります。それが下手だと「いいわけ」の多い人材として、冷たくあしらわれるようにもなります。
ただ、説明上手になってしまえば、せっかく「くやしい」気持ちが生まれても、学生時代のような真っ直ぐな努力ができなくなるでしょう。逆に説明が下手であれば、自分のことをより高く評価してくれる上司を求めて転職を繰り返すようにもなるかもしれません。
このように、社会人になってからのほうが、学生時代よりも、自分の中に芽生える「くやしい」気持ちと正面から向き合うのが困難になります。だからこそ、社会人の成長には、学生時代以上に、大きな差が生まれてしまうのです。
結局のところ、社会人にとって必要なのは「くやしい」思いをしたとき、それを挽回するための説明に走るのではなくて、目の前の仕事で他者を見返す方向に心を整えるスキルなのでしょう。そして、わざわざ自らを「くやしい」気持ちにさせるような環境(失敗の多い環境)に身をおける人が、大きな成長を手にしていくことになります。
しかしそれも、社会人としての活躍の場があればこそです。
高齢者も、日常的に「くやしい」気持ちになることがあります。しかし、仕事を引退している場合は特に、こうした「くやしい」気持ちをバネとして頑張る対象が見つかりません。これが、高齢者特有の苦しみになります。
他者に見下されても、それを見返すための手段がなければ、ストレスばかりが蓄積してしまいます。理屈では「他者の評価など気にしなければいい」というのは、確かにその通りです。しかし、多くの人は、若い頃から一貫して「くやしい」気持ちをバネにして成長してきたのです。
高齢者になってから、急にそうした成長のノウハウを捨てろと言われても、なかなか難しいでしょう。残されているのは(1)我慢すること(2)他者に会わないようにすること(3)「くやしい」気持ちにさせられた相手に対してキレること、の3つしかありません。
長年積み上げたプライドもありますから(1)の我慢には限界があります。だからということで(2)他者に会わないようにすることは、よいことではありません。周囲からも、できるだけ社会との関わりを断たないようにアドバイスをされます。
そうなると・・・キレるしかないということになります。
これが、キレやすい高齢者が生まれてしまっている本当の理由だと考えています。さらに、社会人としてそれなりの成功を収めた人のほうが「くやしい」気持ちを単純に受け入れて(1)我慢することに慣れていません。そうした人のほうが、普通の人よりもキレやすいイメージがあるのも、これで説明がつきます。
他者に対してキレるだけの元気がある高齢者には、本当は「くやしい」気持ちをバネにして頑張れる仕事(社会的な役割)が必要なのです。その意味で、人間にとって現役引退というのは、とても残酷なイベントです。むしろ生涯現役でいることのほうが、人間は幸せのうちに生きることができるのですから。
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