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ひとりで死ぬことは、それだけで不幸というわけではない(孤独死を考える)

孤独死を考える
気持ちに余裕がない場合は、この記事は読まないでください。「看取り」に関する内容になります。

孤独死という言葉に隠された問い

孤独死(こどくし)とは、一人で暮らしている人が、誰にも看取られることなく死ぬことです。ここには、なんらかの健康上の問題があっても、助けを呼べずに死んでしまうという悲しい背景があることが想像されます。

こうした背景の想像から「孤独死が増えていることが問題」「見守りが必要」といった意見が出て、それぞれに意味のある活動がなされています。それはそれで、大事なことです。

ただ、一歩ひいてみると、自立とは、ある意味で、孤独死を受け入れる覚悟と表裏一体でもあります。見守りのようなサービスには、プライバシーの問題もからんできます。見守りのシステムの話になると、自分なら、監視されているようで嫌という意見を聞くことも多いです。

孤独死はよくないことかもしれません。では、どのような死であればよいのでしょう。愛する家族に囲まれて、手に手をとって別れの瞬間を迎えるというのは、確かに理想的です。しかし、今まさに死ぬというタイミングを逃さずに、愛する家族が集まるというのは、現実的なのでしょうか。

現実的な死は、そもそも孤独である

死ぬ瞬間に、そばに誰かがいるという状態は、実はそれほど多くはないと思われます。家族からすれば、気が付いたら死んでいたとか、医師から死亡を伝えられたということがほとんどでしょう。

家族として本当に気にすべきなのは、死ぬ瞬間に近くにいられないことではなくて、死ぬ直前まで、暖かい関係でいられたかどうかだと思います。後になって「もっとこうしてあげたかった」ということが多すぎるのなら、問題です。

もちろん、死の瞬間にも一緒にいられたら嬉しいです。ただ、死というものが、どのタイミングでやってくるかわからない以上、ここは運になってしまいます。だからこそ、運ではないところで、私たちは、できることをしておくべきなのでしょう。

見守りのためのシステムを導入することも大事ですが、それ以上に、暖かいコミュニケーションを取れているかどうかのほうが重要です。結果として、孤独な死となってしまうかもしれませんが、人生そのものが孤独でなかったのなら、それはそれで仕方のないことだと思います。

本当の問題は、孤独死ではなくて、孤独である

本当の問題は、孤独死ではないと思います。孤独死は、ある意味で、多くの人にとって避けられない最後です。しかし、人生そのものが、ずっとひとりぼっちで寂しいものであることは、大きな問題です。

見守りのためのシステムを導入しても、孤独であれば、問題は解決されていません。本当に求められているのは、誰かをひとりぼっちにしない、おせっかいな社会だと思います。

誘われて、それが嫌なら断れるということと、誘われないというのは、大きく違います。いろいろなことに誘われて、気が向かなければ断っても、また誘ってもらえるような関係性が、広く日本じゅうに広がることが本質なのだと思います。

※参考文献
・野尻雅美, 『高齢者の孤独死と満足死「一人」と「ひとり」からの考察』, 日健医誌24(2015年)
 

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