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気持ちに余裕がない場合は、この記事は読まないでください。「看取り」に関する内容になります。
軽い認知症を発症している場合も、そこまでは行っていない場合も、物忘れがひどくなるのは、高齢者にはよくあることです。このとき、高齢者に、自分の物忘れがひどくなっているという自覚があるとき、心理的にはかなり厳しい状況に追い込まれます。端的に言うと「自分の知能が落ちていくこと」が理解できると、その恐怖に苦しむということです。
ある意味で、自分の認知がおかしくなっていることに自分で気がつけない場合は、こうした苦悩はないわけです。そこにはまた、別の苦悩があるのですが、今回はそこに関しては考えません。
「自分の知能が落ちていくこと」が理解できるとき、高齢者は、自分のことを差別しはじめます。自己紹介などのとき、自逆的に「日々、バカになっております」といった発言を聞くことがありますが、それです。自分を客観的に見たとき、その情けない姿に絶望するのです。これは、自分を客観的に見ることができないレベルで認知症が進行している場合は、生まれない絶望だという点が重要です。
私たちには、忘れたい過去もあります。それだけ上手に忘れることができたら嬉しいのですが、そんなことはありません。ただ、私たちには忘れたい過去だけでなく「忘れたくないこと」もたくさんあるのが救いです。
もっと言えば、私という人格は「忘れたくないこと」で形成されています。ときにそれは、正確な記憶ではなく、自分に都合のよい記憶だったりもしますが、そうした偏向そのものも、私という人格を定義しているわけです。
愛する人の顔や名前、その人との記憶は、私を定義するのに最も重要なものです。共に戦った仲間の顔や名前、その人たちとの記憶は、嫌な記憶も含めて宝物です。感動した本や映画もまた、大事なものでしょう。
極端に言うなら、私とはすなわち、こうした「忘れたくないこと」の集まりです。その内容は、他者とは異なるからこそ、個性というものも生まれるのです。その個性を受け入れてくれた人々が、私たちの生きる自信となってもいるでしょう。
認知症になると、自分の愛する人に会っているのに「この人は誰だろう?」となることがあります。そのまま、ずっと相手が誰だかわからない場合は、そのこと自体が苦悩になることはありません。
しかし、ちょっとして、その人が誰であるかに気がついたときは残酷です。自分にとって最も大事な存在を、自分が忘れつつあることは、自分が自分でなくなることです。また、守るべき人を、守ることができない自分に気がつくということです。
どうして、私たちには、このような残酷が与えられているのでしょう。「死」は、知的な概念としては瞬間としての「死(death)」として理解されます。しかし、自らがその過程にあるとき、そこに至る「死にゆくプロセス(dying)」の残酷として感じられるものになるのです。
それに耐えられるのかという問いに意味はありません。耐えらえる、耐えられないの先にあるのは、どのみち「死」という同じ結論だからです。そこではなくて、この残酷が生み出す苦悩を「軽減する」という立場だけが、意味のあるものとして存在できるはずです。
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