閉じる

自宅で、延命治療なく死にたいというのは本当か?

自宅で、延命治療なく死にたいというのは本当か?気持ちに余裕がない場合は、この記事は読まないでください。「看取り」に関する内容になります。

介護の効率化は重要な視点ではあるけれど

介護の効率化についての議論は、毎日のように、様々なところで繰り広げられています。財源が枯渇していく中、いかにして、要介護者1人あたりにかかる費用を減らすのかということは、重要な議論です。しかしそれは、いかにして目的地に到達するかという手段論にすぎないという視点も必要です。

こうした議論は「国の財源をできるだけ使わないで最低限の介護(福祉)を行う」ということを目的として進められるのは、仕方のないことです。しかし、介護をされる側の視点が無視されてしまえば、これは、危険な議論にもなりかねません。

どうしても気になるのは、老後の自分のあり方について早めに意思表示をしておくというACP(Advanced Care Planning)からして、その目的が、国の財源を痛めないことに寄りすぎているのではないかということです。この点について、以下、もう少し考えてみます。

本当に自宅で延命治療なく死にたいのか?

様々な統計によれば、多くの人が、自宅で延命治療なく死にたいということになっています。しかし、よく考えればわかることですが、ここにはアンケートという調査手法の限界が現れています。「どこで、どのように死にたいですか?」と聞かれたら、誰でもそう答えるというだけの話であり、それが本心ではない可能性が高いからです。

人間に限らず、生物の本心として共通するのは「死にたくない」ということです。自分の死についてなんて真面目に考えたくないし、脳科学的にも、本当は想像もできないという、生命らしい本質を無視して、こうしたアンケート結果だけが一人歩きすることは危険ではないでしょうか。

このように表面的なアンケート結果は、たとえば「病院で家族に見守られて死にたいか、自宅で孤独に死にたいか」という質問に変えるだけで、結果が大きく変わるでしょう。アンケートというのは、かなり気をつけないと、その結果が誘導できてしまうことも忘れるべきではありません。

私たちは、尊厳のある死(というよりも生)を望んでいる

ラーメンを、一度も食べたことのない人に対して、どのようなラーメンが好みかを聞くことに意味があるでしょうか。同じように、死んだことのない人に、どのような死が理想かを聞くことが、本当に、望ましい死を、その人に対して届けるのでしょうか。

私たちが望んでいるのは、漠然とした、尊厳のある死だと思います。そこには、みじめに、恥ずかしい死は嫌だという消極的な希望があるだけで、積極的に、こういう死がいいというものを持っている人は例外的なはずです。なにせ、経験したことがないのですから。

むしろ私たちは、死が自分に訪れる前に十分な喜びがあることと、自分の死後、愛する人々に迷惑をかけないことを望んでいる可能性があります。場所はどこであっても、死の直前に、愛する人々に「ありがとう」と言えることや、死後の注意点などを十分に語れることが重要なのではないでしょうか。

死の量産化は許されないことではないか

みんなが自らの死と向き合い、元気なうちから、自宅で延命治療なく死にたいという意思表示をすることは、国の財源という意味では理想的です。しかしそれは、個別の死という意味からは、あまりにも周辺の事情にすぎず、当事者にとって重要な「愛する人々との別れ」の考察にはなっていません。

それこそ、映画やドラマのように、愛する家族のために、地球に衝突しようとしている隕石に向かって特攻するような死が選べるのなら、自宅で延命治療なく死ぬということは選ばないでしょう。だからこそ、そうした死は、映画やドラマにはならないのです。

世間に知られていないだけで、人間には、それぞれに、ドラマがあります。そうしたドラマの最後が、どのようなものであるべきか、誘導が容易なアンケートで決めてしまって良いのでしょうか。いかに、これから多くの人が死ぬ多死社会がやってくるとしても、死の量産化は、あってはならないことだと思います。

どのようなプロセスであるべきかを議論したい

死に対する学問のことを、特に、サナトロジー(thanatology)と言います。その根本は、死(death)そのものを扱う医学・生理学的な学問と、死にゆくプロセス(dying)を扱う哲学・心理学的な学問の2つで構成されています。

国に、お金がないことはわかります。ただ、どうしても、これからの日本には、サナトロジーの中でも特に、後者の、死にゆくプロセス(dying)を扱う哲学・心理学的な社会的コンセンサスが必要でないでしょうか。適当なところで、自宅で延命治療なく死ぬというあたりでの社会合意では、ひどく不足だと感じます。

これからの日本では、介護という文脈において、大きな経済成長が見込まれています。だからこそ、死が、単なる低コストの量産にならないよう、私たちは、議論を開始すべきだと信じています。とても難しい議論ですが、これは、国の理念に関する一番重要な議論でもあるはずなのです。

KAIGOLABの最新情報をお届けします。

この記事についてのタグリスト

ビジネスパーソンが介護離職をしてはいけないこれだけの理由