KAIGOLABの最新情報をお届けします。
気持ちに余裕がない場合は、この記事は読まないでください。「看取り」に関する内容になります。
将来の介護の負担を下げるためには、親と、介護について具体的な話をしなければなりません。特に、親が認知症になってしまった場合、どのような介護を望むかは、親ができるだけ元気なうちに聞いておくべきでしょう。その他、いざとなったら、老人ホームに入りたいかどうかなども、とても重要な話題です。
ですが、そうした介護についての具体的な話を、親と上手くできないという話をよく聞きます。いざ、話をしようとしても、どうにも気が進まないということもあるでしょう。また、介護の話を持ち出したら、親が不機嫌になったり、縁起でもないと怒ったりするということもあるようです。
しかし、介護の話はもちろん、遺産相続に関することまで含めて、しっかりと話し合えている親子もいます。そうした家族の場合、介護予防はもちろん、早めに自宅をバリアフリー化していたり、地域包括支援センターとつながっていたりと、確実に介護の準備も進めています。墓の準備をしたり、生前葬を行う家族もあります。
誰もが、震災などに備え、非常食などを準備しているでしょう。何事も、将来のリスクを見越して準備することが大事というのは、いまさら言うまでもないことです。では、どうして、介護についての準備は、できている家族とできていない家族に二分されてしまうのでしょう?
介護について考えるということは、死と向き合うことです。老化によって、徐々に心身の機能が衰えていき、死に至るというのは、誰も避けることができない運命です。介護の準備をするということは、いかに死んで行くかについて、残りの人生についての具体的なビジョンを描いていくことでもあります。
震災のための非常食を準備しようという話であれば、純粋に生きるための準備ですから、気まずい雰囲気になることはありません。しかし将来の介護について話をすることは、死を意識して残りの人生について考えることですから、私たちは、どうしても気まずさを感じるものです。
親が年老いて死んでいくプロセスにあるという事実が、親子ともども受容できている場合は、意外とあっけらかんと介護の話ができるものです。しかし、親子の間に、死の受容についてギャップがあると、具体的な介護の話は難しくなります。死について意識するだけでも、不吉なことに感じられるからでしょう。
子供のほうが、親の死を受容する準備ができていない場合、親に遺産の話をされると「そんな話はやめて」という気持ちになります。逆に親のほうが、自分にも死が近づいていることを受容できていない場合、子供から介護の話をされると「まだそんな歳じゃない」という気持ちになります。
「終活」という言葉が、徐々に浸透しています。この「終活」という言葉は、音だけで考えると「就活」と同じです。「就活」が意味する就職活動は、誰もが当たり前に行う、将来を考える活動です。このポジティブな語感が、そのまま「終活」のイメージに乗っています。
周囲のみんなが「終活」をしている高齢者の場合は、自然と、死の受容プロセスに入っていくことができると思います。実際に、高齢者のグループでは、冗談半分ではあっても「終活」という言葉が使われる機会が多くあるようです。
「終活」とは、死ぬ日まで、いかにポジティブに生きるかを考えることです。死は避けられないにせよ、その日まで、できるだけ幸福のうちに生きていくためにこそ、介護についての具体的な準備もまた必要になるわけです。
日本はこれから、多死社会(たくさんの高齢者が死んでいく社会)に突入していきます。そうした社会では、死学(サナトロジー)の学習が必要です。その入り口は、冗談半分で使われる「終活」という言葉のある場だと思います。
KAIGOLABの最新情報をお届けします。