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【書評61】『おばあちゃんが、ぼけた。』村瀬孝生著, 株式会社イースト・プレス

おばあちゃんが、ぼけた。
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前回の書評でご紹介した『へろへろ雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々』に、頻繁に登場する「村瀬孝生」さんによる本です。先の本では「宅老所よりあい」の成り立ちと介護の姿勢が、第三者の視点で書かれていました。本書は、介護職として著者自身の立場から書かれています。

子供に向けて書かれたものですが、優れた児童文学がそうであるように、内容は高度なものです。子供だけではなく、大人にもぜひ読んでいただきたい本です。何歳むけという括りはあまり意味がありませんが、強いて目安をあげれば、小・中学生が中心でしょうか。ほとんどの漢字にはルビが振ってあり、本文の内容に沿って、ほのぼのした4コマ漫画も挿入されています。

今の社会では、生老病死を我が事として捉えるのは大人にとっても難しいことです。まして子供たちには無縁とも言える世界です。本書の巻末に掲載されている、谷川俊太郎が寄せた文章から引用します。

若い人たちの中には、ぼけなんて遠い未来の話だと思っている人がいるかもしれませんが、たとえ自分はぼけていなくても、たとえ身内にぼけた年寄りがいなくても、ぼけについて感じ、考えることには、人生そのものを問うことの面白さがありますし、私たちが今生きている時代の動きと切り離すことの出来ない切迫感があります。ぼけの可笑しさ、不思議さ、怖さ、美しさを通して、私たちは人間といういのちの限りない深みに触れるのです。(p173)

著者は福祉大学卒業後、大型の特養に就職し、「宅老所よりあい」に移って今に至ります。本書は、大型特養での経験から書き起こされます。著者がひそかに「リポビタンDばあさん」と呼んでいたおばあさんがいます。リポビタンDは個人商店で買ったものしか認めません。著者はおばあさんが元気だった頃の生活に思いを馳せ、こだわりの理由を考えます。年金暮らしのおばあさんのために、スーパーで安く買ったものを個人商店の紙袋に入れ替えて手渡します。

いろんな人がいろんな事をやらかし、噛み合わないまま揉め事になったり、丸く収まったりする様子が淡々とユーモラスに描かれます。誰にでも歴史があり、たとえすぐに忘れてしまうにしても、今を確かに生きているのだと実感させられます。それでも、限られた数の職員が100人ものお年寄りを介護する施設です。問題がないわけはありません。

縦六歩×横九歩の隔離部屋が出てきます。おばあさんが2人、おじいさんが1人が「閉じ込められて」います。向かい側の寮母室から中が見えるような作りでプライバシーより安全優先です。狭い隔離部屋の中で3人はバラバラに自分の世界を生きています。

当時は、隔離部屋に入れられることも、拘束服を着せられることも、しかたのないことだと思っていたと、著者は振り返ります。そうするしかなかった職員の過酷な労働にも触れています。

自分がたったひとりで16人のオムツ交換をした経験や寮母さんが、オムツ交換に抵抗するおじいちゃんのお尻を思わず叩いてしまったことも書いています。なぜそんなことが起きてしまうのでしょうか?

限られた時間の中ですべてが早く終わること。ぼくたちの仕事の価値はそこにおかれていた。そんな環境はそこで暮らすお年寄りをだめにした。そこで働く職員をだめにした。(p37)

何をするにも自分のペースを崩さないお年寄りたち・・・小さなアンパンを40分かけて食べる人、白飯を一粒づつ食べる人、10m歩くのに10分以上かかる人、1ページ読み進むのに数時間かかる本好きの人がいます。

(お年寄りたちは)どんなに時間がかかっても自分のペースで成し遂げた。それを待てないのは、ぼくたち職員のほうだった。スピードと効率を重視するぼくたちの介護は、お年寄りの持つペースとリズムをことごとく乱し、それぞれの世界を破壊した。(p40)

歩行器の車輪を鳴らしながら追ってくる姿が映画の「ジョーズ」を思わせる「ジョーズばあさん」や、柿畑のことばかり気にして家に帰ろうとする「柿じいさん」もいます。ある日この2人が玄関ホールで話しています。

玄関ホールでは、なにやらジョーズばあさんが柿じいさんを諭している。「じいちゃん、あんた、ここから出たらつまらんばい。どうせ、あたいらはここに捨てられたとばい。あきらめな。」ぼくはふたりに近づくことができなかった。離れることもできなかった。そんなぼくの視線をよそに、ジョーズばあさんと柿じいさんは、じ~っと外を見続けていた。(p46)

著者が特養を辞めて「宅老所よりあい」に移ってからのことは「生きることにつきあう」パート1~パート5、「死につきあう」パート1、2で書かれます。ぼけたお年寄りが生きることに「つきあう」こと、死ぬことに「つきあう」ことなど、どのエピソードからも、見守るのでもなく付き添うのでもなく「つきあう」ことの難しさと大切さが伝わってきます。

失語症のヨシ子さんは、50人ものお弟子さんがいたお花の先生でした。「つねる」「ひっかく」「かみつく」の3点セットで職員や通所仲間を攻撃します。

想像してごらん。突然、言葉を話すことができなくなったらどうなるか。(中略)すべての言葉を失うと、心はどうなるのだろう。人との関係はどうなるのだろう。(p125)

じっとしていられないうえに暴力を振るってしまうヨシ子さんも、3年を経て、なんとかみんなと一緒にドライブに行けるようになりました。通所仲間のツル子さんと手をつないで散歩することもあります。ひっかかれてもツル子さんはすぐに忘れてしまうのでトラブルになりません。ある日、みんなで出かけた喫茶店で、ヨシ子さんが他のお客さんをひっかいてしまいます。ツル子さんが飛んでいって「ごめんねぇ、この人ちょっと『オカシイ』の」とヨシ子さんの代わりに謝ります。

ツル子さんは認めていたのだ。ヨシ子さんのことを。ちょっと「オカシイ」わたしたちの仲間だと。(中略)理解よりも、ともにすごすこと、理屈を超えた時間の共有はきっと何かを生み出すんだ。(p127)

そして著者は静かに訴えます。

「ぼけ」ることが素晴らしいなんて思わない。素晴らしいと思えることは、人はたとえ「ぼけ」ても一生懸命に生きるということ。そのことを認めない社会をぼくたちは望まない。(p168)

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