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九州福岡に、特別養護老人ホーム「よりあいの森」があります。住宅街の中に残された「森のようなところ」に建てられた木の香漂う建物。そこにはは26人のお年寄りが暮らし、併設されたカフェは地域の人たちの交流の場にもなっています…というのは、本書の最後の方で語られることです。
この施設は、お寺の一室から始まったデイサービスが出発点です。さらにその出発点のおおもとになったのは大場ノブヲさんという「一人の強烈なばあさま」(p11)です。明治生まれの大場さんは夫の死後、誰にも頼らず、毅然とひとり暮らしを貫いてきました。そして、彼女は認知症になりました。
伸び切った白髪、曲がった腰、風呂に入らず着替えもせず垂れ流し状態で妖怪のようになった大場さんは、ボヤ騒ぎまで起こします。大量に買い込んだ食料は腐ってマンションの居室から外にまで悪臭が漏れ出しました。近隣の住人は、火事の危険を恐れ、悪臭に悩まされることになります。
大場さんは助力を申し出る公的私的な声に、一切耳を貸しません。そこに登場するのが下村恵美子です。もう一人の主要人物が、第2よりあい所所長の村瀬孝生です。他にも魅力的でエネルギーに満ち満ちた人たちが登場します。詩人・谷川俊太郎も、浅からぬ縁で長く関わっている一人です。
元介護職の下村恵美子と仲間二人が乗り出して、事態は動き出します。本書では、こうしてお寺の一室を借りて始まった「宅老所よりあい」から、特別養護老人ホーム「よりあいの森」が完成するまでが綴られます。本書の著者は、
「宅老所よりあい」の職員ではない。介護に詳しいルポライターでもない。社会問題を提起して何かをお知らせするタイプのジャーナリストでもない。じゃあ何かと問われれば、フリーの編集者ということになる。(p7)
という人です。「宅老所よりあい」の雑誌「ヨレヨレ」の取材も、撮影も、原稿も、レイアウトも、編集も何もかもすべて1人で行っていいます。そんな著者による本書も、介護に無縁の人でも、おもしろく読めます。「よりあい」に集うお年寄りたちの日常、介護や資金繰りに奮闘するスタッフの様子が活き活きと書かれます。
老人介護施設には、ぼけを抱えたお年寄りたちが「ヨレヨレ」しながらたくさんいる。そういう施設が出す雑誌だから『ヨレヨレ』だ。それに「宅老所よりあい」の職員はとても働き者だ。みんな「ヨレヨレ」になりながら働いている。だから『ヨレヨレ』だ。(中略)
老人介護施設の出す雑誌だからこそ、おもしろくしたいと思った。身内や介護専門職だけが読む雑誌じゃつまらない。むしろ、そういう世界にまるで縁もゆかりもない人たちが手に取り、読んでもらえる雑誌にしたかった。腹を抱えてげらげら笑ってもらえたら最高だ。介護の世界や ぼけの世界を扱うからこそ、愉快で痛快で暗くないものを作りたいと思った。(p10)
口コミで宅老所に集うお年寄りが増え、お寺本来の仏事に支障をきたすようになります。民家に移り、やがて第2宅老所、第3宅老所も開かれます。もちろん、ことはスムーズに運ぶわけではありません。最初の民家を探すところから問題はいくつもいくつも出てきます。。
通所するお年寄りの事情に応え、泊まりにも対応するようになります。そうすると介護保険法上、施設の自主対応ということになってしまいます。職員の負担は過酷なものになり、資金繰りも苦しくなってきます。こうして「よりあい」は、特別養護老人ホーム建設に向けて動きだします。
なんの見通しもなく走りだした建設計画ですが、住宅地の中の森のような土地が売り出されます。「よりあい」のためにあるような土地です。しかし土地代1億2,000万円をなんとかしなくてはなりません。
これを、下村恵美子と村瀬孝生は、3ヶ月で101人の支援者に声をかけて集めてしまいます。しかし、建物も建てなくてはなりません。建設費(少なく見積もっても1億6,000万円)をどうするのか?市の補助金申請のために準備しなければならない膨大な書類、補助金7,000万円をもらえたとしても残りは?
「よりあい」には、下村、村瀬他のスタッフたちに加えて、さまざまな職業の「世話人」たちがかかわっています。著者もその世話人の1人です。施設の近所の人との温かいつながりもあります。どこを切っても血の出そうな生きたネットワークが張りめぐされています。まるでひとつの大きな有機体のようです。
このような「よりあい」から、理想的な老人介護施設のあり方を「学ぶ」のは難しいでしょう。見学したり話を聞いたりしても知識としてのノウハウを効率よく得ることもできません。それでも、次の言葉には、色々と考えさせられます。
村瀬孝生は「ぼけても普通に暮らしたい」というお題目で講演を続けている。「ぼける」という老化現象の一つでしかないことを、まるで業病のように扱い、「予防しよう!」と呼びかける世の中の風潮に対して「本当にそうでしょうか?」と「ボケの世界」で暮らす人々の豊かさを話して回っている。(中略)
「ぼけても普通に暮らしたい」というお題目が成立するのは、「ぼけたら普通に暮らせない」社会になっているからだ。なぜそんな社会になっているのだろう。誰がそんな社会にしてしまったのだろう。ただ「ぼけた」というだけで、住み慣れた家での生活に終止符を打たれてしまうのはなぜだろう。
その終止符を打っているのは誰だろう。追い立てるように施設に入れて、それで安心を得ている生活者とはいったい誰なんだろう。それにしてもー。僕らを待ち受けている「老い」とは、本当にそういうものなのだろうか。そんなせこい話なのだろうか。(p171, 172)
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