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親子を中心とした家族関係は、いつの時代にも、様々な形で取り上げられています。文学作品のテーマであったり、精神医学の分野から広まって、マスコミをにぎわすものまであります。『スターウォーズ』のテーマもまた、親子ですね。親子というのは、それだけ誰にとっても関心の高い問題であり、永遠のテーマなのでしょう。
少し前に聞くことの多かった、アダルト・チルドレン(AC)という言葉があります。これは、ビル・クリントン(アメリカ元大統領)が、大統領選において「自分はACだ」と語ったことがきっかけのひとつ(p178)だそうです。
これに続いてブームとも言える現象になったのが「毒親」という言葉です。本来は親に対して使うものではない「毒」という言葉のインパクトが、よくも悪くも、多くの人の関心を集めたのかもしれません。臨床心理士や芸能人による「毒親本」が多数出版され、週刊誌の見出しにもしばしば「毒親」の文字が見られました。
そもそも、永遠のテーマとしての親子関係に対して、刺激的な「毒親」という言葉が与えられたのです。完璧な親など存在しない以上、ある意味で「毒親」はどこにでもいます。本当の問題は「毒親」の程度なのですが、とにかく、この言葉はブームになってしまいました。
本書の著者は、アダルト・チルドレンという概念を日本に導入した精神科医です。アダルト・チルドレンという言葉の本来の意味を正確に説明し、歪んでいった経緯をわかりやすく書いています。つづく「毒親」についても、もともとの意味と、精神科医である著者のもとを訪れて「毒親」を批判するクライアント(患者)の状況を説明しています。
本書は「毒親ブームに安易に乗って、親を批判し続けるだけでは、あなたのためになりませんよ」ということを伝えるものです。さらに「そこにとどまらずに、前を向いて一歩を踏み出しましょう」と背中を押してくれます。
アダルト・チルドレンとは、健康な家族の機能を果たしていない「機能不全家族」の中で育った人のことです。ただ、アダルト・チルドレンとしての生きづらさを自覚していても、その人々にもたくさんの可能性があることを、著者は本書の中で繰り返し強調します。
著者は、アダルト・チルドレン・オブ・毒親(毒親のせいでこうなったと主張する人)に向かっても同じメッセージを発しています。そして、自分自身の成長を考えず、自分の人生の責任を親にだけ置いて、その免責として「毒親」という言葉を使ってはいないかと問いかけます。
もちろん「毒親」にも程度があり、こうした主張がまったく通用しないケースもあると思います。本来であれば、正しく親の存在を否定することで、自分を取り戻せるというような場合は、この本の主張自体が、逆効果になる可能性もあります。そこは、どうしても注意したいところです。
ただ、著者のところにクライアントとしてやってくる人から「毒親に育てられたために自分はこうなった」と主張することが多くなったというのは事実なのでしょう。そして、いわゆる「毒親本」を持参して「これが私の親です」という人が増えたことに対する問題意識として考えると、このブームの問題点もまた、無視できません。
不幸な状況から抜け出せない時に、ひたすら自分がダメだからだと思い込む人(極端な自責)がいます。逆に、すべてが自分以外の誰かのせいだと考える人(極端な他責)がいます。一般には、こうした自責と他責の間で揺れ動きつつ、バランスの取れた人生を送るものだと思われます。
これらの2つの立場は、正反対のタイプのように考えられるものです。しかし、著者はこれを「他罰と自罰はコインの表裏」(p39)として、心の動きが同じものであることを示していきます。そのプロセスは、以下のように説明されています(p39〜40)。
今の自分は情けない状態だ → 親に申し訳ない → 死のう → 死ねない → よく考えてみれば、私は生まれたくて生まれてきたわけじゃない → 親が勝手に生んだのだ → 親のせいで私は追い込まれている → 親は私をダメにする毒を持っていた → 親は私に賠償する義務がある
あまり考えたくないですが、この図式は、仕事、恋愛、友人関係など、あらゆる人間関係に当てはまりそうです。もしかしたら「毒親」という考えにとらわれる人は、他の人間関係においても、どこか、生きにくさを感じている可能性もあります。
著者は、こうした「毒親論」は、ある意味で宿命論になってしまうことを懸念しています。宿命論は、その環境を宿命として受け入れるしかない、ある種のあきらめにつながるでしょう。繰り返しになりますが、本当に、自分ではあきらめるしかない環境というのもあります。誰もが、自分の力だけで人生が切り開けると主張しているのではありません。
ただ、著者は、人間の成長過程において、親を「毒親」とみなす時期があるのは自然なことであるといいます。その上で「毒親論」から自由になって、どこへ向かうかを丁寧に説明しています。
自身のクライアントを始めとして、親への恨みや自責の意識にがんじがらめになった人たちは現実に多数います。そうした人に対して、著者は、その苦しみに寄り添い、ときには強い口調で真剣に語りかけようとしています。
社会生活は問題なく送りながら、30年間も、母親との問題に苦しみ続けたクライアントなど、いくつかの事例もあげています。こうした具体的な事例の中からも、自分の抱えている問題が見えてくる人もいるのではないでしょうか。
本書は当初『毒親って言うな!』というタイトルにしようと思っていました。それが、書いているうちに今のタイトルに変わりました。『毒親の子どもたち』というのは、自分を健全だと思って毎日を過ごしている人たちをも含めた全ての人です。この本がみなさんのお役に立てるよう願っています。(p183)
「毒親」という言葉に限らず、社会現象になるほどに広がるものの背後には、なんらかの時代に共通した真実があります。これだけ流行するということは「毒親」もまた、広く一般にある事実であり、程度の差はあれ、現代の病気なのでしょう。
名付けることは、なにかを理解するための重要なステップではあります。しかし、名付けた段階で、考えることをやめてしまえば、かえって危険なことにもなりかねません。「毒親」という言葉の背後に隠れた、それぞれに異なる親子の課題を見つめる必要もあるのだと思います。
そこには「毒親」という言葉では片付けられない、親による子供に対する深刻な犯罪もあります。それは「犯罪者」であって、もはや「毒親」でさえありません。逆に、親子の間に生まれる一般的な葛藤にすぎないことが「毒親」とされてしまうこともあるでしょう。
私たちは「毒親」という言葉が持っている「毒」から、そろそろ、自由になる必要があるのかもしれません。
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