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老老介護の心理的なメカニズム(意外と他者が入り込めない)

老老介護の心理的なメカニズム

老老介護は、周囲が助けようとしても、意外と入り込めない

老老介護とは、介護をする人も、される人も、ともに65歳を超えているような状態を指した言葉です。日本では、2013年の段階ですでに、この老老介護が全体の5割を超えており、社会問題化しています。

これはよくないということで、家族や介護のプロ、自治体の職員などが、老老介護の現場に入り込む努力をしています。しかし、こうした「介入」を、高齢者夫婦の側から断られるということも多いようなのです。

その心理的な背景について『老い衰えゆくことの発見』(天田城介著作, 角川選書)に考察がありました。今回は、この考察を手掛かりとして、具体的な対策について考えてみます。

老老介護にいたる、心理的なメカニズム

老老介護の状態には、いったい、どのような心理的なメカニズムが働いているのでしょう。ここを理解しないままに、横から介入しようとして失敗している例が多いことから、これは重要な視点だと思います。以下、先の考察から、一部引用してみます。

現在の高齢者は”男は仕事、女は家庭”といった性別役割分業を中心に家族を構成していることが少なくない。家事全般を担ってきた妻が家事労働をすることが困難になった場合、介護する夫が家事労働を担う。その際、皮肉にも夫はしばしば妻への統制を強める。夫が家事労働を担うようになっても、否、なるがゆえに、夫は「夫」たらん、妻は「妻」たらんとするのだ。

逆に、夫が老い衰えゆく時、妻は自らの身体がしんどくなりつつも家事労働を続ける。夫に対しては「この人は何もできない」と無力化し、過剰な気遣いを行う。夫はそんな妻に感謝しつつ、「夫」に居座り続ける。各々が自らの面子やプライドを保たんとするのだ。

その後、次第に認知症が深くなったりすると、介護する側は、老い衰えゆく配偶者の「分かっていること」を絶えず「発見」していくことになる。それがやがて、「この人を分かってあげられるのは私だけ」という思いになると、自分と他者との間での「線引き」が生まれる。「私しかいない」という意識の強化が、施設入所などの選択を躊躇させ、あるいは選択したのちに、幾重にも深い苦悩と葛藤を生じさせることになる。

夫婦がともに老い衰えゆく中で、それぞれに自らの存在を保とうとする介護の日々。その中でのささやかな「幸せ」が、皮肉にも更なる「苦しみ」を招きいれてしまうのだ。

『老い衰えゆくことの発見』(天田城介著作, 角川選書)p128

「この人を分かってあげられるのは私だけ」という状態が怖い

先の考察を読めばわかるとおり、これは、仲睦まじい夫婦に起こりやすいことです。お互いのことをきちんと考えてあげる「」があればこそ、結果として老老介護になり、他者を受け入れられない状態にまでいたってしまうからです。

このとき、浅い次元でとらわれているのは「あるべき夫らしく振舞う自分」「あるべき妻らしく振舞う自分」です。しっかりとした自分でありたいという面子やプライドが、結果として、本当に相手にとって利益になることはもちろん、自分にとって利益になることも見えなくさせているわけです。

これが高じると、お互いに「立派な夫であること」「立派な妻であること」のほうが、相手の幸福よりも重要なものになってしまう可能性もあります。建前としては、相手のことを考えるよき配偶者なのですが、結果として、他者を遮断する閉塞化した状態にまで行き着いてしまうこともあるようです。

周囲から「もう十分やっている、休んでいい」と伝えていくこと

この状況は、結局「よき夫婦でありたい」という理想のために、現実の自分を犠牲にし続けるということでもあります。そうした状況は、長期的には、無理がたたって、必ず破綻してしまいます。

周囲にできることは、相手の面子やプライドを大切にした上で「もう十分やってきたし、そろそろ休んでもいい」ということを伝えていくことだと思われます。相手のためでなく、自分のために生きていいということ、残りの人生を楽しんでいいということに気がつけば、理想の犠牲にならずにすむわけです。

もちろん、これは言うほど簡単なことではありません。ただ、老老介護に介入していくことは難しいことであり、そのためには、彼らの理想への共感と同時に、そこから距離をとること、自らの人生を楽しむことへの誘いが必要だという点は、認識しておくべきだと思います。

※参考文献
・日本経済新聞, 『「老老介護」初の5割超え 急速な高齢化浮き彫り 厚労省13年度まとめ』, 2014年7月15日
・天田城介, 『老い衰えゆくことの発見』, 角川選書
 

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