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「優秀な自分」を目指してきた、その自分が、老いていくということ。

優秀な自分

使える、使えないという尺度が生み出す問題

ビジネスの現場では、他者に対して「使えるやつだ」とか「あいつは使えない」といった言葉をよく耳にします。こうした言葉を発する自分自身はと言えば「使える」ということを前提としていないと、口から発することが難しい言葉です。

この社会は、自分のことを「使えるやつだ」と認識してもらいたい人々によって構成されています。ですから、私たちは、現役時代を通して、自分ができることを増やそうと頑張るし、他者から高い評価を得たいと努力します。

他人の目を気にしないというのは、理想ですが、現実にはとても難しいことです。仲間からの信頼を得たいと思うことは、おそらくは本能レベルに刷り込まれた人間の本質です。

本能というやつは、疲れて弱っているときほど、コントロールが効かなくなったりもします。そして、現代社会というところは、常に疲れる話題でいっぱいです。結果として私たちは、ついつい「優秀な自分」を目指し、それに届いていなくても「優秀な自分」を演じようとするのです。

そうして普通に生きてきた人が老いていくとき

老いるということは、残酷ですが、自分自身が「あいつは使えない」とバカにしてきた他者よりも、ずっと「使えない」状態になっていくことです。そのときになって、自分が天に唾してきたということに気がつくのでしょう。

老いるということは「優秀な自分」が崩れていくことです。「使える」とか「使えない」とか、本来は、道具の評価に用いる言葉を人間に適用してきた「罰」が、そこに発生します。人生の晩年まで使ってきた尺度が、最後になって、牙をむくわけです。

結局のところ、この尺度が間違いであることを認めないと、老いを受け入れることはできません。それはつまり、物心ついてから、現役を引退するまでずっと大切にしてきた「優秀な自分」という価値観を捨てるということです。

「優秀な自分」を目指すことのバカバカしさに向き合うとき

生きていることの素晴らしさに向き合い、愛する人との時間を大切にし、他者を勝手な尺度で評価しないという状態を、幸せというのでしょう。誰の人生にも尊い価値があり、それは「使える」とか「使えない」という言葉で表現することを許さない、神々しいものです。

介護されるということは、いろいろな意味で残酷です。しかしそれは、もしかしたら、幸せの哲学をする「最後のチャンス」かもしれません。これを抜けられれば、優しくなれるでしょうし、過去にひどいことをしてきた相手に対して心から謝罪をすることができるかもしれません。

こうして文章を書いている私が、そんな崇高な領域に到達できるかどうか、まったくわかりません。ただ、歳を取るごとに、謝りたい人が増えていくというのは本当です。困りましたね・・・
 

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