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介護現場における「くれない族」にならないために

くれない族

「くれない族」とは?

今から約30年前、TBSで放送されたドラマに『くれない族の反乱』というものがあります。ここから「くれない族」という言葉は、1984年の流行語大賞において、流行語部門銀賞となっています。

ドラマとしては「夫はいつも○○してくれない」と文句を言っていた専業主婦が、このままではいけないと目覚め、仕事や恋に走っていくというものでした。その後、いろいろと上手くいかない自分の人生を他人のせいにばかりする人のことを、特に「くれない族」と呼ぶようになったわけです。

とはいえ、これはもう30年以上も前の話です。それが今また、注目を集めるようになってきています。その背景には、いったい何があるのでしょう?

東大の先生が「くれない族」に言及

東京大学大学総合教育研究センター准教授の中原淳先生が、この「くれない族」についてブログに書いています。一部、以下に引用します。

「くれない族」は「今起こっている不都合な現象」に対して、自分が及ぼしている影響力のことを1ミリも考慮せず、常に「傍観者」的視点から、周囲の行動のみを批判します。興味深いのは、ある事象に対する「自己の要因」は、くれない族の頭からは、都合良く、きれいさっぱり抜け落ちていることです。「くれない族」の態度は、おそらく、長らくの経験の蓄積から、「学習」されてしまったものだと認識しています。

対して、この世に「反くれない族的志向」というものが存在しうるのだとすれば、それは、周囲にどんな「面倒な事態」が起こったとしても、自分の行動や認知が、その事態に及ぼしている影響はゼロではないことを想像することそして、もし自己が「面倒な事態」に少しでも影響していたのだとしたら、「面倒な事態の変革」に、何らかのかたちで貢献しようと思う「意志」をもつことだと思います。「主体性」というのは、巷でよく使われる言葉ですが、僕は、そういう知的態度こそ、「主体性」とよぶのにふさわしいのではないかと思います。

自分の不都合を、他人のせいにしておけば、自分は傷つかないですみます。しかしこれは、ライチャードによる高齢者5分類における「攻撃憤慨型(外罰型)」に相当し、決して望ましいことではありません。良いことは自分のせい、悪いことは他人のせいという人には、孤独まっしぐらの人生が待っています。

介護の周辺では「くれない族」が発生しやすい?

30年以上前の流行語が、今またピックアップされるようになってきている背景には、日本全体の高齢化があるのではないでしょうか。高齢化とは、すなわち、自分でできることの減少(将来の可能性の減少)を意味しています。それは結局、自分の周辺で発生する不都合を、他人のせいにするしかない状態が増えるとも言えるわけです。

確かに、介護現場にいると「家族が私のことをかまってくれない」「誰も誘ってくれない」「ヘルパーが助けてくれない」「自治体が対応してくれない」・・・という具合に「くれない族」を見ます。

もちろん、こうした言葉には真実があり、それ自体は課題として広く認知されるべきものでしょう。しかし、そこにある課題は、他の誰かが解決すべきものという視点だけでは「くれない族」になってしまいます。

大人には、この社会がこういう状態であることに対する責任がある

私たちには、国の将来に責任をもった有権者としての立場もあります。ですから、自らも課題の解決に責任があるという視点も必要でしょう。誰かに対して「◯◯してくれない・・・」という気持ちが沸き起こったとき、それは、他の誰かも同じように感じている可能性があります。

そのとき、その課題を自分のものとして、なにか自分にできることを探し、進めることが大事だと思います。誰もかまってくれないなら、誰かをかまえばいいわけです。誘ってもらえないなら、誘えばいいでしょう。助けてもらえないなら、それをビジネスチャンスにしてもいいです。自治体がダメなら、選挙活動に訴えるべきです。新聞などに投書してもよいでしょう。

「天は自ら助くる者を助く(Heaven helps those who help themselves.)」という言葉があります。他人に依存せずに、自分自身で努力する人のことは、天が助けてくれるという意味のことわざです。

もちろん、介護には他人の助けが必要です。ただ、それに依存してばかりでは、天は助けてはくれないわけです。不満とともに過ごすよりも、誰かの不満に共感し、それを減らすために過ごすことのほうが、建設的でハッピーなことのように思われます。
 

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