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同じものを大切に感じてくれる他者の存在について

同じものを大切に感じてくれる他者の存在について

「子は鎹(かすがい)」というのは本当か?

「子は鎹(かすがい)」という言葉を聞いたことがあるでしょう。しかし「鎹」という言葉は、あまり使わないものではないでしょうか。「鎹」とは、2つの独立した木材をつなぐために使われる「コ」の字型の大きな釘のことです。大工さん以外の仕事をしている人には、馴染みのないものだと思います。

「子は鎹」とは、子供の存在が「鎹」のごとく、夫婦の間をつなぐ絆となって、夫婦仲を安定させるという意味のことわざです。背景にある考えを一般化すれば、人間は、自分と同じものを大切に感じる人とは、共同体を維持していくことができるということでしょう。

企業において理念の大切さが強調されるのも、同じ考えで説明することができそうです。同じ目的(理念)を共有しているからこそ、辛いことも、ぶつかり合いでさえ、そこに集う人が乗り越えることができるのでしょう。究極的には、国家における憲法の存在には、国をまとめるために必要な理念としての意味があります。

少なからぬ夫婦において「子は鎹」というのは、実感をともなって事実だと認識できることだと思います。子供がいない夫婦であっても、なにか共有できる価値があればこそ、2人の関係が安定するということに同意できるでしょう。本質的には、そこに必要なのは子供の存在ではなくて、同じものを大切に感じてくれる他者なのです。

介護においてなにを価値に置くのか

介護を1人で抱え込むことは、虐待に直結する非常に危険なことです。とはいえ、ただ他者から「抱え込まないで」と言われることには、嫌悪感すら覚えるものかもしれません。そうした発言は無責任であり、同じ価値を共有しているわけではないことを明らかにするばかりだからでしょう。

介護において注意したいのは、こうして大切に感じているのは、要介護者となった人の命であることはもちろん、その相手の幸福(QOL)だということです。ただ生きるために生きるのではなく、生きていてよかったと感じられる瞬間を創造することこそ、介護の真の目的でもあります。

しかし、相手の幸福が進むとしても、結果として自分の幸福が減退してしまうのはよくありません。私たちが、家族のことを大事にできるのは、相手もまた自分のことを大事に感じてくれているからでしょう。相互の幸福を支援する関係性こそが、家族が家族でいるための理念とも言えるのです。

ですから、介護において、誰かが一方的に犠牲になってしまうようでは、介護の目的が達成されることはありません。ただ辛いばかりの介護が続けば、大切だったはずの要介護者のことも、いつしか大切に感じられなくもなってしまいます。しかし、介護はそもそも辛いものです。ここに大きな落とし穴があります。

親孝行をしたいのなら、自分もまた幸福になる必要がある

親からすれば、子供が自分のことを大切に思ってくれるのは、とても嬉しいものです。そのため、自分に介護が必要になったとき、子供がそれを深刻にとらえ、なんとかしようとしてくれることも、嬉しく感じるでしょう。しかし問題は、そうした子供の気持ちは、持続しないと意味がないという部分です。

介護のはじめにおいては、子供による親を大切に思う気持ちだけでも、介護の辛さを乗り越えることができるかもしれません。しかし、介護というのは短期間で終わるものではなく、基本的には数年〜10年以上という期間において続くものです。

そうした長期間、子供が親のことを大切に感じるには、その期間中、親もまた子供の幸福を大切にする必要があります。介護は、これが一方通行では、とても続けられるような生易しいものではないのです。ですから、これは理想ではなく、本当にこの双方向性が失われるとき、介護は悲惨な結末を迎えてしまうことになります。

長期間に渡って親孝行をしたいのなら、自分の幸福も大切にしないと無理ということです。具体的には、レスパイトも多用しながら、自分でなくてもやれる介護については、どんどんアウトソースしていくことが大事です。親が自分では子供の幸福に寄与できなくなっているなら、なおさら、それを自分で追求しないと、親もまた弱ってしまうでしょう。

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