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クオリティ・オブ・ライフ / quality of life(QOL)とは?

クオリティ・オブ・ライフ quality of life(QOL)

クオリティ・オブ・ライフ(QOL)の定義問題

「QOL」を直訳すると「人生の質」となります。ときに「生活の質」とか「生活水準」ぐらいに考えられることがありますが、これはある意味においては誤解です。「QOL」という概念は、客観的には「生活の質」とか「生活水準」ですが、主観的にはもっと高尚なものです。

この混乱は、なによりも「Life(人生・生活)」という言葉が示す意味が広大であり、人によって意味が異なったり、同じ人でも状況によって意味が変化しやすい言葉だからです。そんなわけで「QOL」には、国際的に公式に合意されている定義があるわけではありません。

とはいえ、歴史的には、古代ギリシャの哲学者ソクラテスが「なによりも大切にすべきは、ただ生きることではなく、より良く生きることである」と述べています。ここでいう「良く生きる」ということこそが「QOL」であるという立場もあります。

WHO(国際保健機関)が、健康憲章(1947年)の中で「健康」を定義しています。この定義によれば「健康とは、単に疾病がないということではなく、完全に身体的・心理的および社会的に満足のいく状態にあること」です。さらに1998年には、この1947年の定義に「spirituality(精神性・霊性)」が加えられています。

それほど広い合意は得られていないのですが、少なからぬ研究者は「QOL」の定義を、このWHOによる「健康」の定義で代用しています。すなわち「QOLとは、単に疾病がないということではなく、完全に身体的・心理的・社会的・霊的に満足のいく状態にあること」と定義していいます。

何が言いたいのかというと、そもそも「QOL」は定義レベルでの混乱が(まだ)大きいということです。介護という文脈では特に「高齢者とその家族のQOL」を考えたいわけですが、そこにも定義が統一されない問題があります。「QOL」の研究者たちは「自分が何を研究しているのか」ということに悩みながら、日々努力しているわけです。

「QOL」をめぐる本当に重要なこと;KAIGO LABの意見

結局「満足のいく人生」とはなにかという点が、個人によって異なります。そうなると「QOL」とは、個人の内面によって異なる主観的なものであって、本来は客観的に測定できるものではないのです。

しかし同時に、国が政策を考えていく上では、どうしても客観的に測定できる「QOL」が必要です。介護の現場でも、できるだけ多くの要介護者とその家族の「QOL」を高めていくために、少しでも客観的な測定が求められます。しかしこの客観性というのは、個人の主観を無視したものになりがちです。

たとえば、理想的な人生は、死ぬ直前まで健康で、ある日「コロリと死ぬ」こととする「ピンピンコロリ」という言葉があります。これは極端にひどい言葉だと思います。要介護状態にあっても、少しでも前に進もうと頑張っている人の主観的な「QOL」を無視している言葉だからです。

「ピンピンコロリ」だなんて言葉は、ただ純粋に生きることに一生懸命な要介護者に対して、直接、目の前で言えません。本当にそれが理想だと思うなら、自分が要介護者になったときは、そうすればよいだけでしょう。こういう言葉が言えるのは、今の自分が健康であり、自分になんらかの介護が必要になる未来を想像する力がないだけです。

客観的に測定する「QOL」は、社会的弱者をなくすためのものであるべきでしょう。それは主観的な「満足のいく人生」を与えるためではなくて、客観的な「不幸」をなくすためのものです。メディアには見えず、隠れてしまっている弱者を見つけ出し、具体的な支援をするための「QOL」は、客観的に測定し、最低限の社会保障のレベルを上げるためにこそ使うべきです。

なるほど「不幸」というのも主観的なものなのかもしれません。ある意味で、他者の人生にたいして外から「不幸」と評価するのは失礼でさえあります。しかし、そこについては国は「失礼なおせっかい」でよいと考えます。

たとえば、最低限の生活を送るために必要な賃金を定めて測定し、社会の中に、その賃金を下回る人がいないようにするための「QOL」は必要です。たとえば、誰もが安全に過ごせるように犯罪レベルを測定し、犯罪を撲滅していくような「QOL」も必要です。家にお金がないからという理由で、修学旅行の前にひっそりと高校を中退するような子供がいなくなるための「QOL」も必要です。

誰もが、最低限の医療を確実に受けられるようになる「QOL」も必要です。平均賃金に対して、生活必需品にかかる費用が占める割合をできるだけ低くするような「QOL」も必要でしょう。年間に占める有給休暇とその取得率なども「QOL」として測定して、誰もが休暇を楽しめるような社会の実現も大事です。

そして「ピンピンコロリ」というのも、言葉は最低ですが、誰もが要介護状態にならないような予防を受けられたり、要介護状態を改善するリハビリを受けられたり、介護者となる家族が介護に苦しまないように多様なサービスを受けられたりするという意味での「QOL」であれば、確かにそれは必要なのです。

要介護者、介護者である家族、介護のプロの「QOL」

そうした中で、ほとんど研究者たちの手がついていないのが、介護現場の「QOL」です。要介護者については、少しは考え方が整備されてきていると思います。しかし、介護者となる家族の「QOL」や、介護のプロの「QOL」に至っては、ほとんど測定さえされていません。

そうした過程で、介護をめぐり、家族が長年愛してきた人を殺めるといった事件が起きています。激務をこなす介護のプロの賃金はほとんど上がらず、離職率だけが高くなっています。さらに、介護事業者の破綻が相次いでいます。

介護の現場は、主観的に「満足のいく人生」について語る段階にないわけです。それ以前に、客観的な「不幸」と戦うための「QOL」の測定が必要なはずなのです。

※参考文献
・土井由利子, 『総論-QOLの概念とQOL研究の重要性』, J. Natl. Inst. Public Health, 53(3) : 2004
・前田 展弘, 『QOL(Quality of Life)研究の潮流と展望』, ニッセイ基礎研 REPORT(2009年)
・厚生労働省資料1-1, 『生きることの集大成を支える相談支援ガイドライン』, 第五回終末期懇談会, 平成21年12月24日
 

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