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必要性へのこだわりが、大切な人生をダメにしてしまう

必要性へのこだわりが、大切な人生をダメにしてしまう

必要なものだけが大切なのか?

物事を切り分けるとき、その物事の必要性を問うことは、誰もが行うことでしょう。それこそ、小さな子供の頃から「それは必要なの?」とたずねられ、答えに窮したりもしてきたはずです。そうした経験を積み上げて、私たち人間は、過度に、物事の必要性にこだわるような側面を持っています。

役に立たない物事は、存在してはいけないかのように感じてしまうなら、それはもう病気です。近年の日本では、大学における文学系の学部学科が閉鎖される方向になってきていますが、なんとも残念な流れです。本当に価値がある物事というのは、必要性では判断できないからです。

たとえば、私たちにとって家族というのは、かけがえのないものでしょう。とくに親にとっての子供は、その存在自体に価値があり、必要性を問うことは馬鹿げています。大上段に構えるならば、なにかを愛するということは、その存在の必要性を問わない(もしくは必要性が自明である)ということでもあります。

必要かどうかという問いは、その物事が、なんらかの目的を達成するための手段として位置付けられる場合にのみ有効なものです。しかし、その物事が存在すること自体が目的である場合、必要性に関する議論が無意味になるというわけです。

この宇宙の存在自体に目的など与えられていないのですから、一人の人間の人生にも、与えられた目的などありません。そうした目的を見出すのは、自分自身なのです。そして、自分の人生に目的を与えるのは「自分には大事な物事がある」という認識です。

手段の中に目的が見つかることもある

子供のころ、勉強なんて必要ないと感じたことがあるかもしれません。ですが、どこかの時点で、偏差値の高い大学にいければ、人生が有利になるということを知ります。そのとき勉強は、大学に入るという目的の手段になるかもしれません。勉強に、必要性(受験のための手段)が与えられる瞬間です。

ところが、必要だから仕方なくやっていた勉強の中にも、不思議な喜びを感じたことがあるでしょう。それは特定の小さな領域のことにすぎないかもしれません。しかしそれはもはや、受験のためにイヤイヤ行っている勉強ではありません。自分の内側から湧き上がる「もっと知りたい」という欲求は、それを満たすこと自体が目的です。

受験のための参考書においてロングセラーになるものは、ほぼ例外なく、その学問の面白さを教えるものです。そうした参考書は、受験生の中に芽生える偏差値の高い大学に行きたいという気持ちを削除し、勉強すること自体を目的にまで昇華してしまうのです。

同様にして「とりあえず食べていくために」はじめた仕事(生きるための手段)の中にも、面白いと感じられることも(少しは)あるはずです。そして、そうした面白さを深堀できた人材だけが、その仕事において突出したパフォーマンスを発揮することが可能なのです(ジョン・ホランドなどによるキャリア理論)。

自分にとって、その必要性を問う必要のない大事な物事があるという人生は、幸福の必要条件です。それが、人間にとって唯一の生きるモチベーションでもあります。人生は複雑なので、それだけで幸福が手に入るわけではありませんが、少なくとも、それがなければ幸福にはなれないでしょう。

目的のある高齢者、目的のない高齢者

そうした人生をおくり、目的(必要性を問う必要のない大事な物事)のある高齢者は、残された時間を楽しく過ごすことができるでしょう。しかし、必要性にばかりこだわってきた結果として、生きる目的を見出すことができなかった高齢者は、時間を持て余してしまいます。

簡単にいうなら、真剣に取り組める趣味のあるなしが、高齢者として生きる日常に幸福の格差を生み出すということです。現役時代には、趣味のあるなしなど「ささいなこと」だったかもしれません。しかしその「ささいなこと」が、晩年になって残酷な牙をむいてきます。

退屈であることは、人間にとって最悪の不幸のひとつです。若い頃であれば、退屈は、そこから抜け出したいという(尾崎豊的な)ハングリー精神を養います。しかし高齢者の場合、退屈は、その人の人生をダメにしてしまうばかりです。

高齢者としての日常は、人生における決算期に相当します。人生の目的を探すことをしないで、手段としての日常、一般論としての必要性ばかりにとらわれてきた場合、決算期において赤字になってしまいます。

もちろん、赤字であることに気づいて、そこから挽回をする高齢者も実在します。ただ、可能であれば、もっと人生の早い段階から、必要性を問う必要のない物事を見つけておきたいものですね。

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