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愚行権(ぐこうけん)の尊重と介護予防のバランスについて

愚行権(ぐこうけん)の尊重と介護予防のバランスについて

愚行権(ぐこうけん)という言葉を知っていますか?

愚行権(the right to do what is wrong)とは、簡単に言えば、他者からみて愚かなことをするのは、個人の自由であることを示す言葉です。いかに客観的に正しいことであっても、他者が、誰かに対して、なすべき行動を押し付けることはできないということを示す言葉でもあります。

しかし、個人が自由を無限に認めてしまうと、社会が崩壊してしまいます。ですから社会は、個人の自由に制限をかけてきます。このとき、社会の側が個人に対して使うロジックは「他者の迷惑にならない限りにおいての自由(他者危害排除の原則)」です。

では、どこまでが「他者の迷惑」として規定されるのでしょう。逆に、社会の側がこの範囲を無限に広げてしまうと、独裁国家が出来上がってしまいます。愚行権とは、個人の肉体と精神の主権は、個人にのみ帰属するというところを強調しつつ、社会からの制限を考えるときのキーワードでもあるということです。

介護においても、いかにその背景に善意があったとしても、個人の愚行権を無視してしまえば、おかしなことになります。実際に、嫌がる高齢者に対して、無理やり介護予防をさせるというのは、独裁国家であれば正当化されることですが、民主主義国家においては許されません。

医療費や介護費の財源が不足しているからといって、個人が食べられる食事を国が制限したり、運動を国が強制したりするのは行き過ぎでしょう。では、どこまでであれば、こうした制限は有効なのでしょうか。また、どうすれば介護予防は進むのでしょう。

ジョン・スチュワート・ミルの『自由論』

この愚行権について考察したものとして有名なのは、イギリスの哲学者ジョン・スチュワート・ミル(John Stuart Mill)の『自由論』という著作です。この『自由論』が示したのは、個人の自由は、社会の中で、どこまで保護されるべきかということでした。

大切なのは、私たちが責任(=結果に対しての責めを負うこと)を負うのは、他者に関してのことだけです。自分自身についてのことであれば、いかに行動し、いかなる結果となったとしても、それは誰からも責めらられるべきことではないでしょう。ここについては、3つの論点があります。

1つめは、思想や信仰の自由と、それを発表したり表現したりする自由です。2つめは、趣味嗜好や特定の目的を追求する自由です。3つめは、団結する自由です。これらの自由は「迷惑になる」というロジックで、常に、社会から抑圧される危機にさらされています。

もちろん、実際に「迷惑になる」ことはあるわけです。信仰の表現はよいにせよ、強引な勧誘はダメでしょう。趣味だからということで、公共の施設の壁に勝手に絵を描くのも、許されないでしょう。団結するのは良いとして、どこかしこで大声を発して練り歩けば、暴走族とかわりません。

この線引きは、実は、どれも簡単ではありません。特に民主主義においては、特定の自由を謳歌しようとする人が少数である場合、その権利が侵害されやすいという特徴があります。社会への反抗というのは、人間に備わっている「自由への意志」でもあるわけです。

たとえば、ハーレーダビッドソンで爆音を立てて旅をするのはどうでしょう。全ての国民がハーレーダビッドソンを所有し、毎日爆音を立てている場合は、それは誰の迷惑にもなりません。しかし現実にはハーレーダビッドソンに乗るのは少数であるからこそ、時と場合を選ばないといけないのです。とはいえ、少数だからということで、ハーレーダビッドソンそのものを禁止するのは問題です。

『自由論』の中の愚行権と介護予防

愚行権については『自由論』が示す3つの視点の中で、特に第2の視点である、趣味嗜好や特定の目的に関する部分で考察されるものです。一部は、第1の視点である思考の自由という部分にも関わります。

愚行権を、もう少し正確に表現すると「自分自身の命を含めて、自分が所有するものについては、他者の所有するものへの深刻な危害とならない限りにおいて、たとえそれが社会的な視点からは愚行であっても、個人の自由に委ねられるべき」という概念になります。

その良し悪しはともかく、医療費や介護費の財源が足りなくなっているから、ということで、介護予防をお願いしても、自由を希求する人々には届きません。むしろ、介護予防をしないと、誰の、どのような迷惑になるのか(誰の自由を侵害するのか)について議論をしないと、介護予防は進まないでしょう。

中年のころは、子育てや社会的な活動、労働と納税といった義務もあり、健康を害することは控えるというロジックが成立します。しかし、子育ても労働も終わった高齢者の場合、健康を維持することのロジックが、愚行権を前提とした場合、成立しにくいのです。

ここには、家族にとって、親や配偶者の介護がいかに大変なものであるかという理解を前提としたロジックを構築する必要があります。自分の健康を維持することは、家族が、それぞれの自由を追求するための時間を介護に奪われないためにこそ、必要であるということです。

つまり、医療費や介護費といった国家レベルの財源についての理解を深めようという活動ではなくて、介護がいかに大変かを広報する活動こそが、介護予防につながるという意見です。家族の自由を、自分の介護で奪ってしまわないためにも、高齢者の不摂生は、愚行権としては認められにくいものであるべきでしょう。

それでもなお、強制的なことは許されません。あくまでも自由意志に訴えていくレベルにとどめ、家族のために健康を意識し、介護予防に務めるという方向性からズレることはできないとも考えるべきでしょう。

※参考文献
・宮内 寿子, 『ミル『自由論』の射程』, 東京家政学院筑波女子大学紀要第8集, 175~185p, 2004年
・大渕 修一, 『介護予防的視点から生活を支える』, 理学療法学 41(Supplement_1), 218, 2014-05-30

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