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介護における、親子ゆえの悲しみ(親の心子知らず)

介護における、親子ゆえの悲しみ

親は子供を愛している

昨晩、うちの子供が熱を出しました。添い寝をしてやる必要があり、また、夜中に何度もうなされて、その度に「大丈夫だよ」と声をかけてやる必要がありました。おかげで、完全に寝不足・・・というか、寝ていないです。しかし、不思議と苦しみはありません。いや、正確には苦しいのですが、なんとか頑張れる気がします。

もちろん、これがあまりに長く続くと辛いですし、子育てからノイローゼになる人もいます。子供が重い病気だったり、なんらかの障害を持っている場合も、辛さが違います。また、必ずしも親としての責務を果たすことに情熱をかけられる人ばかりでもないので、これは、あくまでも一つの事例だと思ってください。

一般には、子供の成長は、親にとっては、生きるモチベーションにもなります。それに、子育てには終わり(成人になり独立すること)があり、子供が大きくなっていくと、子育て自体も楽になっていきます。こうして、たまに、子供に甘えさせてやれるのは、親としては大きな喜びでもあります。だからこそ、身体的には苦しくても、頑張れるのでしょう。

親が子供を愛するようには、子供は親を愛さない

そんな具合にして、子供と過ごしていると、気がつくことがあります。それは、過去には自分も、親から深く愛されていたのだという事実です。しかし、それは頭では理解できても、感情としては、あまり残っていません。なぜなら、残酷なことに、この時期の子供の記憶は、子供が成人するころにはすっかり忘れ去られているからです。

多くの親は、自分を犠牲にして子供を育てます。しかし、子供は、それを記憶に残さないようにできています。そうなると、成人した子供を持つ親としては「あれだけ、色々と世話を焼いたのに・・・」という気持ちになることもあるでしょう。これが行き過ぎると、毒親になってしまうのかもしれません。

しかし、成人して独立した子供は、親が自分を愛したように、自分の子供(親からみたら孫)を愛します。それは、表面的な記憶には残っていないものの、深層のところに刻み込まれているからだと思われます。ですから、大人になった子供は、自分の子供に対して苦しくても世話を焼いているときに、親の愛情にも気づくのです。

ここで大事なのは、親子の間の愛情というのは、非対称である(親が子供を愛するようには、子供は親を愛さない)という事実です。室町時代初期(14世紀)には「親の心子知らず」と言ったそうですが、これはおそらく、生命の長い歴史の中で培われた知恵なのでしょう。人間以外の他の動物でも、親から子供への愛は多く見られますが、この逆の例を見ることは多くはありません。

介護は、この非対称を超える苦しみでもある

子供として親の面倒を見ることは、今の日本社会では、心情的に義務とされます。その背景には、儒教の影響が色濃く残っています。しかし、儒教のような形での教育をしないと、自然には、子供は親の面倒を見ようとしないという点には、注意が必要でしょう。そこに義務のような社会的な「押し付け」があるのは、そうしないと、子供は親のことを考えないからです(もちろん、個人差はあります)。

ある意味で、子供による親の介護というのは、人間が、本能を超える戦いなのかもしれません。親からしてみたら「あなたが子供のころ、私がどれだけの苦労をしたか」という気持ちがあるので「介護されるのは当然」という意識もあるでしょう。しかし、それは生命にとって、それほど自然な感情ではなく、子供なりに無理をしているわけです。

さらに、子育てとは違って、介護には終わりが見えません。子育てには、子供の成長から喜びを得られるというメリットもありますが、介護にはそれも(ほとんど)ありません。繰り返しになりますが、私たちが介護に苦しむのは、それが、子育てのように本能に刷り込まれた自然なことではないからだと思われます。

だからこそ、介護の社会化を進めていきたい

親としては、子供に面倒をみてもらうことに、心苦しさもありながら、嬉しい気持ちもあるでしょう。しかし、子供からすると、これは本能へのチャレンジと言えるほどに、大変で苦しいことです。その点については、親も、過去に自分の親(子供からみたら祖父母)の介護をしていたはずで、本当は理解していることです。

こうした背景もあって、欧米では、親の介護は、子供ではなくて社会が担うという前提が共有されているのです(アメリカは、褒められた状況とは言い難いですが)。日本も、今の介護保険制度がはじまったころ(2000年)は「介護の社会化」という理念が叫ばれたのでした。

親の介護の辛い部分は、十分な報酬の与えられるプロが行い、精神的な部分は、子供が担うというような関係性ができたら理想なのです。しかし現在の状況は、これとは程遠いところにあります。

しかし、理想がどこにあるのかを忘れたまま、目先の問題にばかり向かうと失敗するということは、人類の歴史が示す通りです。国家でも、企業でも、家族でも、存続し繁栄していくためには理想が必要なのです。

介護がどこまでも辛いのは、まず、どうしてそれが辛いのかという背景が社会的に共有されていないからです。そして、こうした理想がどこにあるのか、見えなくなるからだと考えています。

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