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人生の意味を問う;その方法論について

人生の意味を問う

気持ちに余裕がない場合は、この記事は読まないでください。「看取り」に関する内容になります。

ある物理学者の言葉

ある物理学者に聞いた話です。介護について議論をしていて、どこからか「生きる意味」について、どこにも行き着かない、とりとめのない話になって行きました。「人はなぜ生きるのか?」「なんのために存在しているのか?」といったときに、彼は次のようなことを言いました。

なにごとも「なぜ存在するか?」と問うと、難しくなる。だから、物理学者は「どう存在するか?」という事実を追いかける中で「なぜ」を感じるようにしている。言葉にすることはできないが、物理学者の喜びは、こうした「なぜ」を感じる瞬間にこそある。

考えるということは、言葉にするということでもあります。ですから「人はなぜ生きるのか?」と問えば、その中の「なぜ」を言葉にしないとならなくなります。どうやら、この人生の意味を問うには「なぜ存在するか?」という直球ストレートではなくて「どう存在するか?」というカーブでしか近寄れないものなのかもしれません。

介護の中で「どう存在するか?」という事実を追いかけること

人生の意味を問うためには、そもそも私たちの社会(宇宙)が「どう」存在しているのかという事実を追いかける必要がありそうです。最終的に「なぜ生きるのか?」という問いへの言葉による回答は得られなくとも、それを感じることができるはずだからです。

そんな中で、介護とは「人間はどう死んでいくか」ということを追いかける営みです。死にあらがいながら、死を受け入れていくプロセスが「どう存在しているか」を知ることは、カーブではあっても、私たちに生きる意味を感じさせてくれる機会だと思います。

これだと、理性によって世界を理解しようとしてない、感情にすぎないという批判もあるでしょう。

しかし、人間にとって理性というのは、実は人間の行動を決める上で、せいぜい、二番手にすぎないという主張は、歴史的にも少なくありません。人間の行動を決めているのは、ほとんどが、感情です。

「人生の意味はなんだろう?」という問いが、宇宙の真理を求めているものであれば、感情は役に立ちません。しかし、この問いが「これからも生きて行きたいと思うためのきっかけ」を求めているとするならば、逆に、理性など役に立ちません。そのきっかけは、感情の世界にしか存在していないからです。

人生の意味を問うときは、感情が弱っている

感情が奮い立っているとき、私たちは、生きる意味を疑っていないでしょう。しかし逆に、感情が弱っているときは、この世界の全てが無意味に感じられるものです。私たちが人生の意味を問うとき、それは、意味を求めているのではなくて、感情が弱っているだけかもしれません。

そんなときは、自分の話を、意味のあることとして聞いてくれる友達や仲間の存在が大事です。私たちは、そうした存在を無意味だと思わないので、それだけでも人間の存在意義が感じられます。つまり、私たちは、私自身にとっては無意味かもしれませんが、他者にとっては意味があるのです。

物理学者に「生きる意味」を問うことになったとき、私はただ弱っていたのだし、この問いの答えは、目の前の物理学者の存在が明らかにしてくれていたのでした。簡単なことのはずなのに、それがとても難しく感じられるのが、人間の面白いとこでもありますね。

そうした意味で、人間とは、自らの「生きる意味」に不安になる生き物であり、その答えは、誰かに必要とされることの中にあるのかもしれません。グチグチ考えるよりも、仲間とカラオケにでも行けば解決してしまうことだったりするのですから。
 

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