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高僧とガン

高僧とガン
気持ちに余裕がない場合は、この記事は読まないでください。「看取り」に関する内容になります。

自分が死ぬという現実を前にするとき

医師の世界で、昔よく伝えられていた『高僧とガン』という逸話があります。今は、ガンも不治の病ではなくなってきましたし、その患者への告知も当たり前のことになっています。しかし、20年前までは、ガンの告知は当たり前のことではなく、患者には隠されることが多かったのです。

そうした時代のこと、ガンになった高僧(僧侶の中でも特に地位の高い人)が「自分の病名を教えてほしい。私は悟りに近いところにいるから、いかなる告知であっても取り乱さない」と医師に詰め寄ったと言います。そこでガンを告知したところ、高僧は取り乱し、悲嘆のあまり自ら命を絶ったという話です。

これは実話ではなく、あくまでも逸話だと言われています。逸話ではありますが、医師に対して、ガン告知の難しさを伝えるには十分で、今も高齢の医師は、よく覚えている話だそうです。

告知をどうするのか

介護の終わり近くになると、要介護者は様々な病気になります。そうした中で、致命的であり、余命を決めてしまうようなものも出てきます。家族には、この事実は伝えられます。そうしたとき家族として、その事実を、要介護者に伝えるのかどうか、これは本当に難しい問題です。

この問題を考えるとき『高僧とガン』の話は、示唆的です。結局「あなたは死ぬ」という事実を告知されたとき、自分はそれに耐えられるのか、それとも取り乱すのか、これは自分でもわからないわけです。

多くの人は、健康なときは「嘘をつかれるくらいなら、死が近いことを告知してほしい」と言います。しかし、それは健康なとき、死が現実的とは言えないとき、冷静なときの話です。

特に日本人は、死を「ケガレ」として忌み嫌うとも言われています。それを考えることすら「縁起でもない」という感覚を持つこともあります。そもそも、医学的に告知される余命というのも、あくまでも確率の話であって、絶対的な未来ではないわけです。

告知をした結果として死期が早まるかもしれないし、告知をしなければ長生きするかもしれません。とはいえ、嘘をついたまま、死別ということになると「本当は、死期を知っていたら、やりたいことがあったかも」という気持ちになります。告知をしても、告知をしなくても、どちらにしても後悔のある話なのです。

とはいえ現代的には告知の方向にある

現代は、特定の病気に対して、複数の治療法が乱立する時代です。そうした中で、どの治療法を選ぶのかというのは、他の誰でもない、患者の選択であるという流れができてきています。となると、いかなる病気であっても、少なくても相手が大人である限り、告知することが多くなります。

このとき、注意したいのは、告知された後の要介護者の反応は、それまで要介護者のことを深く理解してきたとしても、意外な反応になることも多いということです。おそらく落ち着いているだろうなと思っても取り乱したり、逆もまたあります。

家族として大事なのは、告知した後の要介護者のケアです。表面的には落ち着いていても、内面ではそうではない可能性もあります。共に「死」と向き合い、その拒絶から受け入れというプロセスを、一緒に悩むということが、家族に残されている対応のありかただと思います。

後悔のないように行動するのではなく、後悔することはさけられないものとして、その上で、どのように寄り添っていけるのかを考えるしかありません。本当に難しい問題ですが、しかし、誰にでも訪れる問題でもあります。
 

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