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死と向き合うことの恐怖は、健康な人にはわからない

死と向き合うことの恐怖は、健康な人にはわからない

気持ちに余裕がない場合は、この記事は読まないでください。「看取り」に関する内容になります。

悟りを開いた高僧にとっても自分の死は怖いということ

いかに多数の死の現場を目撃している僧侶であっても、自分の死は受け入れがたいことを示す教訓に『高僧とガン』という逸話があります。「自分はもはや悟っている」と考える人でも、自分の死は怖いということです。

人間に限らず動物は、自分がわからないことを怖いと感じるようにできています。私たちは、それなりに危険なことであっても、過去にそれを実行して大丈夫であれば、そうした行動に恐怖は感じません。しかし、どんなことであっても、初めて体験することには、誰もが尻込みするものです。

そうした、誰にとってもわからないことの最大のものが自分の死です。他者の死であれば、自分のことではありませんので、深い悲しみにとらわれることはあっても、恐怖までは感じないでしょう。しかし、自らの死については、過去に経験したことがないため、大きな恐怖をともなうのが普通です。

私たちは、自らの死は怖すぎて、普段それを考えることさえ避ける傾向があります。いつかは必ず自分にも訪れるとわかっているにも関わらず、死について知ろうとはしないのが一般的です。知ろうとしないからこそ、ますますわからないことになり、死への恐怖は年齢を重ねるたびに、それと意識していなくとも増大していきます。

高齢者は自らの死と向き合おうとしている哲学者

個人差はあるにせよ、高齢者は、自らの死と向き合おうとしている哲学者です。それは恐怖の中に生きるということであり、ストレスの大きな体験だと思われます。しかし、そうした自らの中で膨らみ続ける死への恐怖を、態度では示さない高齢者が多いという点には注意が必要でしょう。

家族や介護職である人々は、自らが健康である場合、どうしても、高齢者が向き合おうとしている自らの死への恐怖に対して、共感を示すことが困難です。恐怖と不安の中に苦悩する終末期こそ、誰かからの共感が助けになります。しかし、これを健康な人が行うことは、そもそも難しいのです。

「うちの親に限って、そんなことはない」と考えないほうがよいと思います。本棚に目をやれば、哲学的な本が増えていたりするかもしれません。みているテレビ番組も、直接・間接に死に関するものが増えていたりもするかもしれません。

積極的な高齢者であれば、自分と同じように自らの死と向き合おうとしている仲間を得ることもできるでしょう。しかし、周囲の人々に、自分が死に恐怖を感じていることを知られたくない、強がりたい高齢者も少なくありません(特に男性の場合に多いように思います)。

少ないながらも、私たちにできること

心の中では人知れず取り乱し、不安に涙を流しているというのが、自らの死と向き合う人の姿だと思います。私たちは、その恐怖そのものに共感を示すことはできないかもしれません。

しかし、なにか、とてつもなく大きな恐怖を抱えているという状態そのものに理解を示すことはできます。大きな恐怖を抱えて、それと戦っているという事実を認め、そこに敬意を払うということが、私たちにできる数少ないことではないでしょうか。

これまでに、この地球上には、約1,076億人の人間が生まれたという推計があります(PRB, 2011年)。現在の地球の人口は約72億人ですから、これまでに、およそ1,000億人の人間が死んだということになります。

私たち一人ひとりも、いずれは、この統計の中に、吸い込まれていきます。それだけ多数の人々が、自らの死と向き合ってきたという事実があっても、私たちは、自らの死について大いに恐怖します。人間とは、そういう生き物なのでしょう。

※参考文献
・Population Reference Bureau, ”How Many People Have Ever Lived on Earth?”, October 2011

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