閉じる

知っておきたい、無縄自縛(むじょうじばく)の恐ろしさ。

無縄自縛(むじょうじばく)の恐ろしさ

気持ちに余裕がない場合は、この記事は読まないでください。「看取り」に関する内容になります。

無縄自縛(むじょうじばく)とは?

「無縄自縛(むじょうじばく)」とは、ありもしない「縄」で自分を縛ることです。仏教用語で、修行に求められるのは、悟りの境地に至ることにあるのに、それをただ知識で追い求めたり、ただ経験のみを重ねることで、かえって悟りからは遠ざかってしまうことを警告した言葉です。簡単に解釈するなら、常識、固定観念、古い情報などによって、本来であれば問題のない行動を、勝手にあきらめてしまっているような状態のことを指します。

「無縄自縛」とよく似た言葉に、自分で自分を縛るという「自縄自縛(じじょうじばく)」というものもあります。こちらは、自分の発してしまった言葉によって、それが自分を縛り、自由な行動がとれなくなってしまうことを指し、仏教用語ではないようです。「自縄自縛」のほうは、特に政治家が、自ら述べた公約によって動きがとれなくなるようなケースで多用されます。

とはいえ、現代的には「無縄自縛」と「自縄自縛」の意味的な差異は小さく、用法もとてもよく似ています。つまりは、大局的に見たら意味のない「こだわり」によって、自分自身を縛り、本来であれば得られるはずの自由の喜びから遠ざかってしまうという、人間の悲しい傾向について述べている言葉ということです。こうした「こだわり」を捨て、ありたい自分の内なる声に耳を傾けることが大事なのでしょう。

こうした「こだわり」は、知識や経験が増えるほどに、強くなっていくのが困ったところです。古代ギリシアの哲学者ソクラテスも、自らが無知であることを知ること、すなわち「無知の知(I know that I know nothing)」を大切にしていました。ソクラテスのパラドックス(Socratic paradox)と言われるとおり、知れば知るほどに、真理から遠ざかるというのは、誰にとっても落とし穴になることなのでしょう。

私たちの日常の中にある「無縄自縛」

一生懸命になにかをしていても、草木でいうところの「芯」の部分の成長が止まり、細かい枝葉のところだけが動いているような感覚になることがあるでしょう。もちろん、枝葉も大事なのですが、この状態になると、同期や後輩からも追い抜かれ、自分の何かいけないのかに悩むことになります。

このとき、いけないのが自分であると思えれば、まだ「無縄自縛」から逃れることもできるかもしれません。しかしこれを、自分のせいでなかくて、周囲や環境のほうがおかしいという具合に、自己防衛の方向に答えを求めてしまうと大変です。ライチャードの5分類における「攻撃憤慨型(外罰型)」に示されるような人格に至ってしまうからです。

また「本当に好きなこと」にこだわって、なにもできないということも「無縄自縛」でしょう。「本当に好きな人」にこだわって、友達や恋人ができないというのも同じです。一般に「こだわり」をもつことはよいこととされるので、それが「縄」となり、人間から自由な行動を奪うということは現実に少なくないのです。

結局のところ「無縄自縛」が恐ろしいのは、これによって成長が止まるからです。成長は、人間が幸せに生きていくための条件でもあります。映画、小説やゲームが、ことごとく、主人公の成長をテーマにしている(=ヒーローズジャーニー)ことを思い出してください。成長のない物語は、退屈を通り越して、苦痛でさえあるのです。

ただし、こうして「無縄自縛」の状態におちいり、成長が止まることにより苦痛を味わうということは、大事な経験でもあります。ちょっとしたスランプと言ってよく、問題となるのは「無縄自縛」そのものではなくて、その状態から抜け出せないことでしょう。この状態が嫌になってしまい、現場を投げ出すようだと、いつまでたっても「無縄自縛」そのものには負け続けることになってしまうからです。

多くの先人は、こうしたとき、自らを縛る「縄」など、本当は存在しないということを意識せよと言います。おそらくは、自らの内にある「七つの大罪」を疑うべきでしょう。勝ちたい、認められたい、見返してやりたいという気持ちが、かえって、そうしたものから自らを遠ざけてしまうというのが、人生の面白いところでもあります。

高齢者になり、死に近づくということ

このように「無縄自縛」は恐ろしく、特に、その存在自体について無自覚であると、せっかくの人生がおかしなことにもなりかねません。とはいえ、私たちは高齢者になると、自然とこの「無縄自縛」から逃れることができるという見方もあります。

もちろん、高齢者になる前に「無縄自縛」から自由であるほうが理想的なのですが、それでもなお、人生の晩年には、多くの人が、より自分らしい人生に近づいていくことは、よいことです。

高齢者になるということは「8つの喪失モデル」で示されるように、それ以前の人生で大事にしてきた「こだわり」が、嫌でも失われていくことです。確かに、いろいろなものを失うことは、よくない面もあります。同時にそれは「無縄自縛」が消えて、自由に近づくという体験でもあるはずです。

しばしば、高齢者が悟りに近いところに至っていくのにも、こうした背景があるのだと思います。それが自分勝手に見えることもありますが「無縄自縛」から解き放たれるということは、そもそも、そういうことなのかもしれません。高齢者だからと遠慮しないで、やりたいことを、やりたいようにしていく段階にあると考えれば、受け入れるのも(少しは)楽になるでしょう。

こんなふうに考えてみると、人間というのは、生まれてから死ぬまで、実によく設計されていると感じます。例外も多いですが、私たち人間は、若い頃は苦しみながらも成長し、中年にあっては伸び悩みつつ人生を振り返り、最後は安らかなうちにこの世を去るようにできているのですから。

※参考文献
笹森 建美, 『五格一貫 『一刀流極意』の教えを読む』, 剣道時代, 1999年4月号

KAIGOLABの最新情報をお届けします。

この記事についてのタグリスト

PR