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教育とは、死の準備である。

教育とは、死の準備である

気持ちに余裕がない場合は、この記事は読まないでください。「看取り」に関する内容になります。

人生の晩年には、消費から生産に意識が変化する

生命の歴史は、証拠をさかのぼれる範囲だけでも約38億年あります。実際には、今から約40億年前には、この地球に生命が誕生したと考えられています。どういう理由かはわかりませんが、生命は、有限の命のなかで子孫を残し、自らの死後も種の繁栄を望んているようです。

私たち人間もまた、有限の命のなかで、苦しみもだえながらも、何かを後の世に残すことで、人類の発展に寄与しようとします。科学的な根拠はありませんが、自らの死期を意識した人は、特に、この欲求が高まる傾向があるように感じます。

高齢者は、生老病死という哲学をするだけの成熟に至っているとも言えます。しかし、そうした高齢者と向き合う専門職は、年齢的に若い場合は特に、その準備ができていないことも多いようです。こうした若い専門職が、老いや死をネガティブなものと単純にとらえて、無理に、高齢者をポジティブなプログラムに入れようとする傾向も、課題として指摘されています(黒川, 2001年)。

若い時代であれば、楽しく時間を消費することも大事です。しかし、残された時間が短くなると、その時間を消費することで楽しむのではなく、自分の死後にも残される命のためにこそ、その時間を生産的に使いたいと考えても不思議なことではありません。これはおそらく、人間の本能なのです。

もっともインパクトの大きい生産活動とは教育である

こうした中で、もっともインパクトの大きい生産活動とは、教育です。自分が苦労して得てきた生きるノウハウを、誰かに伝えていければ、自分の死後も、そのノウハウは生き残ります。それによって、人類の繁栄に少しでも寄与することができたら、素晴らしいことです。

その意味で、人間にとって教育とは、自らが死ぬ準備ということもできます。安らかに、満足して死んでいくためには、自らがその人生で得た教訓を、後輩に伝えておく必要があるのでしょう。多くの人にとって、それは自分の子供に対してかもしれません。しかし、これが自分の子供に限定されないことも明らかです。

大事なのは、死に近づいた人間は、自然と、そうした欲求を持つ可能性が高いということです。そして、その欲求は、若い専門職には、その若さゆえにこそ、理解しにくいものだったりもします。ここに、注意すべき点があります。

私たちは、介護が必要になった高齢者に対しては、とにかく、相手の助けになることばかりを考えがちです。しかし本当は、高齢者こそ、自分自身が誰かの助けになりたいと考えているとしたら、どうでしょう。そんなことはわかっているという人もいます。ですが、人によっては、高齢者との関わりを、少し見直す必要もあるかもしれません。

生涯を通じて、自らの欲求が満たされる社会へ

高齢者になればなるほどに、誰かに対して、自分がつちかってきた何かを伝え教育していけるような、そうした文化ができることが理想です。この理想の実現は簡単ではありませんが、ここには、二つの意義があります。

一つは、高齢者の欲求をみたしつつ、社会により多くの教育が行き渡るようにするという意義です。社会的役割をもった高齢者は、要介護にならないか、要介護になっても悪化しにくいと考えられているため、これは社会保険料の節約にもつながる可能性があります。

もう一つは、今はまだ若い人々が、自らの将来像としての高齢者を見るときに、希望が持てるようにするという意義です。高齢者が、いきいきと教育に関われている社会であれば、若い人も、自らの将来に対して「老いるのも悪くないな」と感じながら生きることができるでしょう。

繰り返しになりますが、人間は、その生涯において、他者の教育への欲求が変化していく可能性があります。その背景には、おそらく、人間以外の他の生命にも共通する本能があるのでしょう。人間の社会が、こうした、本来の自然な形から離れていけばいくほどに、様々な問題が収束しなくなるようにも感じるのです。

※参考文献
・黒川 由紀子, 『高齢者ケアにかかわる専門職への心理的サポート』, こころの科学, 2001年
・守屋 慶子, 『中・高年期からの心理的発達』, 立命館文學(594), 1066-1050, 2006-03

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