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【書評25】『長いお別れ』中島京子著, 文藝春秋

長いお別れ
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2010年に『小さいおうち』で直木賞を受賞した作家による、認知症をテーマとした物語です。中学校長を退職し、俳句や将棋を楽しみに暮らす実直な男性が、アルツハイマー型認知症と診断されてから亡くなるまでの話です。認知症が進行していく父親の姿と家族の思い、時とともに変わっていくそれぞれの人生が、丁寧に描かれています。

夜の後楽園遊園地、妹の手を引いた幼い女の子が、メリーゴーランドの係のアルバイト青年に「子どもだけでは乗せられない」とすげなく断られる場面から、物語の幕が開きます。

クリスマス間近の夕暮れ時、人のまばらな遊園地。幼い姉の心細さと、どうしてもメリーゴーランドに乗りたいという一途な気持ちが伝わってきます。小さな女の子の手に伝わる妹のミトンの感触さえ感じられます。

場面は、一見唐突に、父親の誕生日を前に、娘たちを招集する母親の電話の場面に変わります。父親の誕生日にあわせて、予定外の帰国をするはめになった長女。この長女は、両親を心配しながら、研究者の夫と二人の息子とともにアメリカで暮らしています。

次女は結婚して息子が一人いますが、何かと母親に頼られる立場です。時差のあるアメリカへの電話も、なかなかつかまらない三女への連絡も引き受けざるをえません。

三女も実家を出て暮らしています。フードコーディネーターの仕事と恋愛問題で手一杯で、母親の電話には実に無愛想な対応をします。「忙しい」が口癖で、母親に「ちっとも電話が繋がらない」と文句を言われています。

母親は、そんな娘たちに頼ったり腹を立てたりしながらも、「自分がやるしかない」としゃにむに介護をがんばっています。

誕生日の招集は、アルツハイマーの診断を受けてから3年目のことです。娘たちは、句会からの帰り道もおぼつかなくなった父親のために、両親にGPS機能付きの携帯電話を贈ります。

年間使用料をどう分担するか、姉妹間の取り決めが、それぞれの負担額や不均等になった理由まで具体的に書かれています。この現実的な記述が、登場人物を、より身近に感じさせて効果的です。

冒頭の幼い女の子の持っている遊園地の乗り物券は、家にくる新聞の集金人がくれたものです。子どもだけで遊園地に来られる理由がさりげなく効果的に書かれています。

章の終わりに、接点のないように見えた二つの話がつながり、温かく切ない光景が描かれます(p36)。

誕生日のシーンで、父親は、大学の卒業証書から町内将棋大会四位入賞の賞状にいたるまで満足げに飾っていたり、包み紙やタバコの空き箱を溜め込んだりしています。かつての謹厳な父親からは想像もできない変化に、娘たちはショックを受けます。

徐々に症状が進行する父親の様子が、最後までこまやかに描かれています。父親の内面にはほとんど踏み込まず、行動や発する言葉、表情の変化だけを描写することで、家族を含む他者の目に移る姿や聞こえる言葉がそのまま読者に差し出されます。

親友の通夜に行って、神妙に焼香していながら、状況を全く理解していない父親。この父親と大学時代の友人たちとのとんちんかんな会話が、付き添った次女の目を通して描写され、読者もその場に居合わせているような気持ちにさせられます(p101~110)。

この葬儀がきっかけで三女のお見合い話が持ち上がるのですが、ボーイフレンドに出て行かれたばかりの30代の女性と、勘違いオヤジのやりとりは、ほとんどコントのようで笑えます(p110~119)。

三人の娘と母親、その他、どの登場人物も、その辺にいそうな人、自分であっても不思議ではなさそうな人たちです。

心配しながら遠く離れて暮らさざるをえない人、自身の家庭があるのに何かと親に使われてしまう人、仕事や恋愛に悩んでいるので親のことまでは…という人、親が介護を必要としているときに、誰もがそれぞれの立場で悩みます。親などどうでもよいと思っているわけではないからこそ、こうした悩みも深まります。

三人の孫たちと祖父母とは、熱くも冷たくもない関係、その年頃の男の子ならそうであろうという自然なものです。特に記憶に残るようなことではなさそうな、いっときのふれあいです。その自然な描写に、かえって、人が人とふれあう一瞬の意味が深く心に沁みます。

自宅にいるのに「家に帰る」と繰り返す祖父。祖母や母親たちと、祖父の実家に行くはめになった男の子は、アメリカに残してきた初めてのガールフレンドのことで頭がいっぱいです(p71~97)。そんな兄を気遣っていた「心優しい小2」の弟にも、やがて思春期の嵐に巻き込まれる日がやってきます。

次女の息子は、始めの誕生パーティーの場面では、祖父に会うより家でウルトラマンタロウのDVDを観たい子どもでした。しかしそれも、将来の夢が探偵、でもそれを言えば人に笑われると自覚する程度に成長しています。そんな男の子が、あるとき「探偵」の素質を活かして祖母を助けることになります(p159~189)。

時間の経過とともに進んでいく認知症と、家族それぞれの成長も含めた変化に心をうばわれます。作者の筆はごく普通の人たち一人一人の日常をみごとにすくいとって、生きるということの煩雑さと滑稽さ、そして尊さを見せてくれます。全編を通して感じられるこの作者の上質なユーモアの感覚があってこその描写です。

母親が入院して、その間、次女と三女が父親の世話をすることになります。二人は、改めて母親がどれほど過酷な状況にあったかを思い知らされます。父親のショートステイ先を探して必死に電話している娘たちのそばで、父親がティッシュペーパーを口いっぱい詰め込んでいます。

娘はあわてて吐き出させようとしますが「おろおろする娘たちを前に、昇平は瘤取り爺さんのようなぷっくりした頬をして、こころもち嬉しそうに首をゆらゆらさせ」ています(p207)。深刻な状況を描いても、作者の視線はいつもユーモラスな側面を見逃さず、それが奥行きのある描写になっています。

終章も終わり近くの場面です。高熱で入院した父親の状態が落ち着いて、娘たちは母親をいったん家に帰したいと思って看護師に声をかけます。
『若い、しっかり者のその看護師は少しだけ考えて、それから静かな口調で言った。「今夜は、できるならお泊まりになったほうがいいと思います」』(p258)。

次に場面は変わり、アメリカのハイスクールの校長室になります。かつての「心優しい小2」は成長し、ハイスクールで問題を起こして校長室に呼び出されています。校長の言葉で、タイトルの「長いお別れ」の意味が明かされます。そのまま引用したいところですが、ここは、ぜひ本書を手に取って読んでください。

それぞれが悪戦苦闘しながらも、家族という「閉じられた空間」に生きているわけではなく、どこかで誰かと「何かとつながり広がっていく世界」に生きているという事実の提示は、本当に鮮やかです。

最後に、本書から、夫との10年間を振り返っての妻のことばを引用(p246より)します。

何が変わってしまったというのだろう。言葉は失われた。記憶も。知性の大部分も。けれど、長い結婚生活の中で二人の間に常に、あるときは強く、あるときはさほど強くもなかったかもしれないけれども、たしかに存在した同じものでもって、夫は妻とコミュニケーションを保っているのだ。

幸いだったのは、夫の感情を司る脳の機能が、記憶や言語を使うための機能に比べて、さほど損なわれなかったことだろう。ときおり、意のままにならないことにいら立って、人を突き飛ばしたり大きな声を出したりすることはあるけれど、そこにはいつもなんらかの理由があるし、笑顔が消え失せたわけではない。この人が何かを忘れてしまったからといって、この人以外の何者かに変わってしまったわけではない。

 

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